夢の国のダークマター

想定愚痴問答
  • 政治はおよそ本分とは無関係なスキャンダルや不祥事ばかりに時間を費やしている
  • ただの知名度人気投票とかアイドルの選挙かな
  • いやー酷いね酷いよ
  • いやいやマスコミはもっと醜い
  • 政治の最も酷い部分に焦点を絞って煮詰めている
  • もっと他に報道すべき内容があるであろう
誰が悪いんだ

こんなご意見はごもっともだ。たしかにそうだし多分それであっている。彼らを責めていれば気分も悪くない。

しかし、考えるまでもなく彼らを一方的に責めるのもおかしな話だということもわかる。議員ならば我々国民が選んだ人物や勢力だし、マスコミ各社で働く人々は少なくとも同じ人間のはずである。何か特別に悪意のある人間ばかりが集まった集合ではないはずだ。

さらには、概ね偏差値上位の大学を卒業した優秀な皆さんに政治や報道をおまかせしているのだ。選挙や入社選考による「そこそこ偏った」バイアスのお陰で、世間一般より優れた人材が割り当てられている。そんな彼らは国民の全体平均よりかなり優れた集合だと言っていい。

だから、我々よりも優秀な彼らに対して更に「もう少しマトモであれ」という要求は既に「高望み」としか言いようがない。

結論から言ってしまえば、残念ながら目を覆いたいこの政治と報道の現状は、すでに我々「日本人」でできる精一杯の水準なのだ。「人類」と言ってもいい。これ以上優秀な人材は集めようがないと言えば少し大げさかもしれないが、はっきり言ってこれ以上どうしようもないのは確かだ。

私達は何も悪くないのか

すなわち、どんなに失言や失態を繰り返す政治家がいようが、どんなに質が悪く、良識や見識のない報道がなされようが、日本の全体平均より優秀なはずの連中で「この有様だ」という認識を持つべきだろう。

もっとフェアな言い方をすれば、所詮「私達」はこの程度なのだ。

「私達?いやいやそんなことはない。アイツやアイツラが特別に悪いに決まっている。俺のまわりにもあんな酷いやつはいない。」それは確かにそうかもしれない。たしかにあなたは良い人だろう。あなたの周りも皆良い人だろう。

もし国民が清く正しく賢いとするならば、なぜ政治と報道は見るに堪えない茶番劇を延々とやっていられるのか。ただ彼らを責めているのでは駄目だろう。彼らを嘲笑して「正義は我にあり」と溜飲を下げて終わってしまうのは良くない。考える必要がある。

憤慨したい事案や問題は数限りないので毎日ウンザリするのは仕方ない。だがもう少し足元を見る必要がある。常に政治と報道は我々国民自身の姿勢がダイレクトに反映されている事を忘れてはならない。

政治家もマスコミも国民の写し鏡でしかない

簡単に言えば、「政治家は選挙に対して適応しているだけだし、マスコミは現在のビジネス環境に適応しているだけだ」ということになる。

もう少し噛み砕けば、それぞれ主義や主張やプライドはあるにしても、政治家は選挙に勝てなきゃ意味がなく、マスコミも売上やPVや視聴率が悪ければ商売として成り立たない。

勝つために、数字を取るために彼らは何をやっているのか。

政治

政治家側は理念や政策や法案や社会問題などを勉強して訴えかけても選挙で当選できないのなら、そんな努力は時間の無駄だ。もっと国民に対して「ウケ」の良い方法があるならそちらに飛び乗るだろう。

およそ実現不可能な政策や、リソースや財源のない政策でウケを獲得しようとするだろうし、選挙のためには重要な政治課題を避けて甘い汁をバラまいたりする。ウケのみを考えて政党の名や組織体裁を変更したりする。

そんな事を繰り返していては、政治家として本来必要な能力や素養は無くなっていくし、政治に必要な能力のある人間から脱落する事になりかねない。そのような現状が続けば、まともな人ほど政治家になろうとは思わないだろう。

すなわち、ほんとうに必要なはずの人材は当選しないという悲劇が発生する。「ウケ」のみに特化した人間が持て囃されることになる。これでは長期的なスパンで物事を考えて本来必要な政策を実行する政治家などいるはずもない。

「いやあ本当に日本の政治は馬鹿で浅はかだなあ」

どうしてそんな安直で理念も正義も欠いたことになるのか。

報道

マスコミ側も必要な政治課題や社会問題などを真面目に伝えるよりも、「不安」や「嫉妬」、「怒り」などの感情を煽ったほうが数字が取れるのであればそちらが優先される。不倫や喧嘩、お家騒動や不祥事を追いかけ回していたほうが皆が見るのならそちらが優先される。中身のない派手な演出や過激な口論や感情論がもてはやされるなら、そちらが優先される。

また、地道に時間を掛けて足で稼ぐよりも、ネットで飛びついた情報を検証もせずに適当に流したほうが時間も金もお得ならそちらが優先される。そしてそんな報道を繰り返していればジャーナリズムとしての機能も能力も当然なくなっていく。

「いやあ本当に日本のマスコミはダメだなあ」

どうしてそんな安直で理念も正義も欠いたことになるのか。

私たちは「大事なこと」には元々あまり興味がない

それもこれも国民の側に理念や政策や法案などの真面目なことには「そもそもあまり興味がない」のだから仕方がない。彼ら政治や報道が何に適応しているかと言えば、我々国民に適応しているだけなのだ。

政治の本質からずれた「ウケ狙い」とジャーナリズムの本分から逸れた「ウケ狙い」に、安易に飛びついて、消費して、咀嚼しているのは我々なのだ。

ほんとうに必要なことは何か。そういった問からかけ離れた報道に飛びついてしまう。誰も長期的な視点に立った冷静な判断などできず、短期的な目の前の餌に釣られ続けている。

当然、難しい政治課題を取り扱う能力や専門的な知識は我々国民にはない。何かを調査したりデータを精査したりできないし、世界の様々な国の制度や法律からヒントを得て自国に最適化するような芸当はできない。複雑な社会問題を分析して問題の核心部分を突くことなどもできない。それは仕方ない。

我々は我々で毎日忙しいのは確かだ。そのための政治と行政のシステムがある。そのために憲法の通り彼らに信託しているし税金を払っている。

だからといって、我々は政治と報道に対して不真面目な態度でいいわけではない。品のない報道が常に数字を取るようでは誰も真面目なことなんかやらない。

「大事なこと」では数字も取れず、選挙で勝てない、というのならわざわざ取り扱う意味が無い。取り扱われなければ問題が存在しないも同然だ。問題の存在自体が認識されないのであればその社会は既に死んでいるか直に死ぬ。

面倒で難しくて逃げ道もなく、自分の耳が痛いことが多い。大部分が損をするような政策が一番マシな選択肢になっていることもあるだろう。だからと言って見ないふりをしていいはずがない。

国民的現実逃避

近年での具体例を出すなら社会保障や財政の問題だ。これらの自分自身とその子供や子孫に降りかかる目の前の問題ですら大して興味が無いのだ。もし興味があったとしても正面から向き合う気がそもそも我々には無い。

そんな国民や社会なら政治や報道が適切に運用されるはずもない。本当に必要な政策や情報はもはや求められていない。今この瞬間に快楽に浸れる言説になびくだけの社会となる。

金と時間を湯水のように使う茶番劇

だから私達は何の足しにもならない茶番劇ほど喰らいつく。難しいことは御免だとばかりに、お祭りにでも参加しているかのごとく。

言うまでもなく政治とマスコミの茶番劇(≒ウケ狙い)に乗せられていては時間と金の浪費でしかない。事実、国会も空転するし、質の低い質疑応答に終始するし、どこかの首長選挙は何回もやり直してる。これらはすべてウケばかりを狙ってやった結果だ。その時間と金は本来必要だったのかという検証もなされない。

どこを見渡しても「アイツが悪い」「コイツはズルい」「ソイツはこんなに下衆だったので、どんな奴なのか幼少期からプライベートも含めて徹底的に暴くことにしました」こんな文脈の内容でごった返している。政治もマスコミも国民も常に自分以外の誰かを悪者にしていたい。犯人探しと愚か者探しで踊り明かしている。

憤慨する快楽

「憤慨」は大変便利な現実逃避だ。頭のいい人も悪い人も、平凡な人でも、毎日虐げられている人でも、知識不要で誰もが「正しさにコミットした」という快楽を享受できる。実際に正しいのだ。夢のコンテンツだ。

悪事に対して憤慨することで、自分の正義感は肯定される。確かにその憤りは正しい。悪事なのだから誰だって怒って当然だし、間違ってはいない。だからと言って踊り明かしていいのか。勧善懲悪の時代劇は廃れてしまったが、別の形で今も人々の欲求は満たされている。

本来、事実関係の整理で十分なはずなのに、延々と感情的に演出された情報を垂れ流している。もしくは事実関係の整理と称して、不要なまでの過剰な情報や推測や憶測を並べ立てる。その全てが炎上させるための燃料だ。報道側は視聴者をどれだけ憤慨させられるかが鍵になっている。

人を怒らせれば怒らすほど視聴率や売上やPVに繋がる。人を怒らせれば怒らすほどカネになる。そして我々はそんなことも大して理解していない。意味のある情報がほとんど含まれていないとも気づかない。一過性の感情だけが刺激されている。そのほうが儲かるからだ。

野次馬根性だけで悪事や不祥事を糾弾し続けたほうが簡単に数字が取れてしまう。社会や国政で問題となっている点を丁寧に取り上げる至極真面目な番組や記事があったとしても、私達国民がついうっかりクリックするのも、ついチャンネルを合わせてしまうのも、リツート&いいねするのも、連日話題をさらうのは不倫や実のない不祥事の話題だったりするのだ。

花を踏んだやつを殺せ

SNSを見てもイヤというほどわかる。どれもこれもわかりやすくパッケージ化された感情がベースになっている。特にTwitterは2コマ型の明快で簡潔な内容が主体となるため、政治とは最悪の相性の良さを発揮する。この界隈ではコミュニケーションの手段やインフラが皮肉なことに分断装置になっている。それらのメッセージには事実誤認と嘘が混ざり合い、嘲笑と憎しみで溢れている。

コミュニケーションが時間軸も空間軸に対してもオープンとなり、参加者の人となりや人生の背景がブラインドされた状態では、質の高いコミュニケーションは不可能だ。「文脈」がないのだから仕方ない。もはや「敵か味方か」という基準しか機能しない。敵であれば全て悪人だとし、味方は全て善人だとするしかない。そういう処理をしたほうが、その界隈ではもはや「合理的」なのだ。

これでは「社会に必要なことが何なのか」というお話が出来るわけがない。

「敵だ味方だ」「馬鹿だマヌケだ」と国民自身が政治の本質に興味がなければ、当然報道のレベルは低くなるしかない。政治や社会の本質を捉えた報道は見向きもされないのだから赤字になるしかない。それならば報道が率先して感情を煽る話題に終始するし、国民の望みどおり皆で叩くための犯人探しをすることになる。

国民と報道がそのような状況ならば、選挙は理念や政策とは無関係なただの好き嫌いや人気投票になるしかない。政治が政策や理念で語られることもなくなっていく。単に好き嫌いや敵味方の構図でしか捉えられない社会となる。ただただ分断されるだけの社会となる。

例えば、ある人物が何かの思想信条に帰属しているとして、反対集団の意見に一つでも同意すれば、元の帰属集団からは非国民扱いとなるのはその典型だ。普通に考えて互いに一長一短あるであろう。十長一短でもいい。そこに横断的な思考を許容する土壌がない。このような状況でよりよい社会がもたらされると思えるほうがどうかしている。

今起きている「嘆かわしい政治と報道」になんの不思議な部分がない。悲しいくらいに当然の帰結なのだ。

人々は何を望んでいるのか

マスコミ側はPVや視聴率といった形で瞬時に結果として現れるため、国民の嗜好がよりダイレクトに反映されている。すなわち、大変にありがたいことに彼らは我々の知能レベルにピッタリで、私達国民が見たいものを見せてくれているにすぎない。

乱暴に言えば、愚かな国民に好かれるために、一生懸命程度の低い政治と報道がなされていることになる。

逆から言えば、真面目に程度の高いことをやったところで報われないのだ。誰も興味が無いのだ。見ないのだ。儲からないし当選しないのだ。

もうガチャを引いてもガラクタしかないのか

政治家の間で不適切な言動やスキャンダルがオールシーズンで発生するのも、偏向報道や事実誤認や見識のかけらもない報道が常時発生するのも、彼らに基礎的な素養すら備わっていないからだが、ソイツが特別に愚か者だというわけではない。

もうそんな人しか我々国民には残されていないという現実を受け止めなければならない。層が薄いのだ。加えて先に述べたように、まともな人は政治家を目指さないし、目指しても当選しない。

さらには、せっかく存在する「立派な人」もしくは「マシだった人」を後ろから銃で撃ち殺している可能性もあるだろう。「立派なだけ」では生き残れない社会だと言ってもいい。

この現状が深刻だとすれば、「立派な人」は我々からは正当に評価されなくなっていく。「立派な人」ほどまるっきり焦点が当てられないか、焦点が当たった場合は変人扱いされるか、どの思想体系に属するグループからも敵視されるといった現象が予想できる。

そう思えば、この社会全体の体たらくは不思議でもなんでもないことがわかる。そういう観点で見渡すと我々は見当違いなほどの高望みをしていることに気づく。そしてこれはどうしようもないということもわかる。純粋な人なら自殺したくなるかもしれない。

謙虚さ

唯一、政策的には教育分野に希望が託せるのかもしれない。私達のような愚かな国民にならぬようにするしかない。しかし愚かな我々自身がそのような判断を下せるのかは疑問だし、実践できるのかはもっと疑問だ。というか絶望的だろう。

まずは「政治や報道でもなく私たちが一番愚かだ」という認識に立てる必要がある。簡単な言葉で言えば「謙虚さ」が求められているということになる。

謙虚さの源は物や他人への感謝の気持ちだ。ところが悪いことに、現代では感謝の念を構造的に抱きにくい。大量消費社会においてはもはや「感謝のしようがない」と言ってもいい。私達が特別に薄情だというわけではない。

現代では全ての価値が通貨と「極端なほど無機的に」交換されている。そのような状況において「感謝」はもはや非合理的だ。持つ意味がないし、持っていたところで何の見返りもない。そのような共通感覚を持っていても発揮しようがない。

例えば、豚や鳥の命の重みを感じて食べることなど困難だし、それを育てた生産者のありがたみを実感として得ることも非常に難しい。

老舗の手打ち蕎麦屋かなんかで注文した食事が運ばれてきたなら、何か感謝の念が湧くかもしれない。牛丼チェーンではどこに感謝すべきなのか、感謝のやり方がそもそもわからない。これは牛丼屋を非難しているのではない。

国民一人ひとりが、社会全体が、謙虚さを用意できないのであれば、自らを律し、後世によりよい社会を存続させようとする動機を保つことは難しいのではないか。

残念なダークマター

今広がっているこの状況は、我々国民全体が持つ「残念なダークマター」とでも呼ぶべき負の性質に、政治家やマスコミが長い時間をかけてお互いが循環しながら相互作用した結果で、水が低い方へ流れるのと似ていて、どうすることも出来ない自然現象のようにみえる。

この連鎖は世代をかけてゆっくり引き継がれ、更により低い方へと重力に負けていく。エントロピーの概念にも似ていて、ポテンシャルの高い状態から低い方へとただただ不可逆的に流れていく。

ただ、この論調には注意も必要で、この見方は人類特有のクセが多分に含まれているはずだ。何故か「昔のほうがマシだった」と太古の昔から人類は言い続けているからだ。

流石にメディアや政治家が「国民が馬鹿だから今現状こうなってるんです(笑)」とは口が裂けても言えないので、このような論点が湧き上がらないのは仕方ない。言った人間から二度と再起できないくらいに袋叩きにされて社会的な死刑を喰らうのがオチだ。ただ誰も言わないからといって我々も調子に乗ってはいけない。謙虚に冷静に現在地を見つめる必要がある。

偉そうな反省

自分でも驚くほど自分自身を脇において、随分と乱暴に国民全体を軽々しく蔑んだ内容になってしまった。しかし私は紛れもなく愚かな国民の一人だ。

そもそも頭が悪い。大した勉強もしてないので知識もない。だから知識の結合も起きないので新しい発想も浮かばない。記憶力も悪いので論理的な整合性も取れず、合理的な取捨選択もできない。お菓子と睡眠を貪ってゲームをしているだけで何のコミットもしない。謙虚さなんかもない。相当たちの悪い部類だ。無能がのうのうと生きてきた証。それが私だ。

慈善活動をしているわけでもない。募金に熱心なわけでもない。自分が良ければアカの他人に特別関心はない。都市化された環境で温々生きている。そういう人間なのだ。

この文章にも他の記事でもそれが存分に表れているはずだ。

世界の潮流と日本

ここでは口汚く「愚かな国民」と書いてしまったが、もう少し柔らかく言うことも出来る。

「国民自らが犠牲となる政策を選択できるのか」という問題になる。今の日本の現状はそのステージにすら立てていないが、大きな括りで言えばその問題に内包される。

ギリシャの経済危機ではまさにそれが起きた。国民ぐるみの現実逃避をいつまでもやっていれば「ああなる」というお手本だ。「民主主義がもつジレンマ」とも言える。

これは世界の潮流と言っていい。一段飛ばしのような経済成長はもう起きず、「バラ色の未来なんてない」と誰もが理解し始めれば、現実としてどこかにしわ寄せがくる。

社会全体に漠然と「多少の自己犠牲は厭わず社会をより良くしよう」という意識が僅かでもあれば、まだ救いはあるかもしれない。本音じゃなくてもいいのだ。偽善でもいいし、建前でもいい。ただその意識を保つには、一定の経済的な豊かさと、ある種の素直さが必要だ。

更に、貧困などで偽善すらも失えば「他人はどうでもいいし、そもそも考える余裕がない。明日食べる飯が必要なのだ。自分だけでも生き残りたい」という本音を唱える人が増加する。そしてある閾値を超えた途端に民主主義は迷走する。

「迷走」と捉える事ができる一方で、これこそが「真の民主主義だ」と考えることも出来るのは、少々ややこしい。例えばトランプ氏の出現は「民主主義の危機」、もしくは「限界」として各種メディアで表現されがちだが、トランプ氏が出現することこそが、民主主義が正常に機能している証であると捉えることもできる。トランプ氏の評価は脇に置くとして、乱暴に言えば「愚民が愚かな権力者を生むことは、民主主義の利点である」と言っていいのかという問題提起だ。

貧困である必要もない。人間の本音がSNSなどで溢れかえる現代では、みな建前を失っていく。本音の前では建前(≒綺麗ごと)ほど馬鹿らしいことはない。剥き出しの欲望に曝されてしまえば、建前や理想は駆逐される運命にある。たとえ裕福であっても「自分さえ良ければいいのだ」という言説が人目をはばからず席巻する。

近年のヨーロッパ各国での極右政党の台頭やアメリカのポピュリズムもこの中で生まれてきた。多民族国家や移民の多い国では特に避けられない流れだろう。権益の分配をある程度の範囲に狭めてしまえば犠牲を他人や他民族や他宗教に押し付けられるのだ。「あいつらは敵だ追い出せ」となれば気分もいいのだろうし、誰もが「せめて自分たちだけはバラの香りを嗅いでいたい」ということになる。

そういった意味では欧米と日本はやや事情が異なる。日本は他国に比べて圧倒的に同一民族で宗教対立もない。このような構成なので、何かを排斥するという動機に転嫁しにくい。

それでも潜在的な排斥圧力は強くかかるので、生活保護の不正受給などには世の中の関心が非常に高い。貧困にあえぐ市民に対する適切な支給がなされていないという問題より、圧倒的に不正受給がフォーカスされる社会となったのだ。「なんてずるいんだ」という感情が専ら刺激され、真に貧困に直面する人物への救済がなされていない事への問題意識はほとんどない。近年は益々のその傾向が強い。

従って、ヨーロッパのような極右政党の台頭やトランプ氏のような出現はこの国では起こりにくいだろう。上述の通り、ほとんどが同一民族なので何かを排斥し、区別するキリトリ線がない。無理やり分断してもごく少数の範囲にしかならない。それでは大して浮く金はないからだ。

最悪なシナリオとしては、国民を分断するなにか新しいディビジョンが発明されたり発見されることだろう。具体的なラインは想像できないが、もしそうなったら住みにくい国になるのは間違いない。日本人は血液型を非常に重視するので、血液型で税金の額や社会保障の額を決めたらどうだろうか。当然冗談だが、一番有り得そうなのは世代間の分断だろうか。

このことから、日本では排斥よりも現実逃避が選択される。ギリシャ路線だ。ギリシャも単一民族で単一宗教国家だ。これは偶然ではない。ギリシャと日本では金融政策や財政状況にはかなり隔たりがあるが、国民や社会全体の態度はかなり似ていると言っていい。

ひたすらに現実逃避するしかないのだろうか。解決策がないなら全員で溶鉱炉に落ちる直前まで幻を見ている方がマシかもしれない。

諦め切れないメディアに対する嘆き

やはり現状の大手報道各社の罪が重いのは紛れもない事実だろう。「問題の本質は何か」という問いに、そもそも組織体裁からして真っ向勝負できない体質なのだ。権力の監視や、社会に潜む真の問題に切れ込むことなど出来ない。乱暴に言ってしまえば彼らは既得権益を持つ権力側なのだ。構造的にそうなのだから仕方がない。そして所属する構成員はその自覚は微塵もなく、「真っ向勝負出来ている」と自負している。これは絶望以外の言葉が見当たらない。

クロスオーナーシップや記者クラブ制度などはその典型で、日本のメディアに対してEUや国連からたびたび注文が付く。当然日本のメディアはまともに報道しない。自浄作用がまったく働かないのだ。むしろ競合するはずの他社と団子になって権益の保護に奔走している。自らの襟を正せない業界が、ジャーナリズムの使命を果たせるわけがない。

この構造の闇は深い。重大な問題ほどその核心部分にメディア側の重大な過誤が含まれてくる。従って、彼らは本質を突き詰める手を止める。そしてその殆どの場合で問題そのものを見て見ぬふりをすることになる。巡り巡って自分の首が締まるなら、報道しないという姿勢にならざるを得ない。

そうなると、返り血を絶対に浴びない問題を選んで報道することになる。大して重要でも何でもない問題を、大げさに巨悪が潜んでいると大々的に報じることになる。そうした一過性だけが取り柄のような、上辺だけの感情論や犯人探しに躍起になってしまう。それこそがメディアやジャーナリストとしての使命であるかのごとく。

この際、政治には罪はないのではないかとすら思えてくる。大手メディアに「本物のジャーナリズムと叡智があれば」と、つい無い物ねだりをしてしまうわけだが、それがないのは茶番に喰らいつく我々のせいだし、日本国民の「層の薄さ」というのはさんざん上で述べたことだ。メディアだけが突然、清く正しく賢くなったりはしないのだ。

このような報道が数字を取り、それを延々と許している我々国民がこのくだらなさの全ての根幹にある。それが変わらない限り適切に報道や政治が運用される可能性は「ない」。

私たちに必要な心構え

諸悪の根源がマスコミだとか政治家だとか特定の個人やグループであれば単純明快だ。しかし「国民全員、つまり私達だ」となれば、振り上げた拳を力なく下ろすしかない。残念だが結論としては「どうしようもない」としかいえない。

だからと言って別に投げやりになる必要もないし、絶望する必要もない。頭の片隅にありさえすればいい。日々目に映る報道に対して「事の本質は何か」「これは本当に重要な事か」と自問自答するしかない。

現在のメディアはとにかく感情を煽る。上述した通り、国民感情と称して「怒り」や「嫉妬」を専ら煽ってくる。とにかく見ている側を怒らせれば彼らの仕事は成立すると言っていい。そのために必ず悪者や愚か者を調達しようとする。

従って我々は「誰かを悪者にして溜飲を下げればその問題は解決するのか」と冷静に判断する必要がある。繰り返しになるが「これは本当にこれほど時間を割くほどの問題なのか」と疑うことが重要だ。

楽観的勝利条件

最後に随分と飛躍した身もふたもない事を言ってしまえば、そもそも私達の脳の構造は何万年も変化していない。これ以上賢くなりようがないのだ。有史以前から人類は絶望的な愚かさと同居しながら絶滅ぜずにこうやって生きてきたのだ。文明や社会が発展と衰退とをどのように経たとしても、最悪、人類が絶滅さえしなければ「勝ち」だという相当にレベルの低い勝利条件で見守るしかない。見方によってはそんなにレベルの低い条件でもない。

おわりに

この文章が特定の個人、もしくは何らかの勢力や政党などを中傷しているように見えたり、逆に讃えたりしているように見えている場合は、残念なダークマターに他の人より重度に侵食されているかも知れない。

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