夢の国のダークマター

想定愚痴問答
  • 「政治はおよそ本分とは無関係なスキャンダルや不祥事ばかりに時間を費やしている」
  • 「ただの知名度人気投票とかアイドルの選挙かな」
  • 「いやー酷いね酷いよ」
  • 「いやいやマスコミはもっと醜いぞ」
  • 「政治の最も酷い部分に焦点を絞って煮詰めたあとで、様々な角度から懇切丁寧にわかりやすく解説している」
  • 「もっと他に報道すべき内容があるであろう」
誰が悪いんだ

こんなご意見はごもっともだ。たしかにそうだ。彼らを責めていれば気分がいいし、多分あっている。あっている。

しかし考えるまでもなく彼らを一方的に責めるのもおかしな話だということもわかる。議員ならば我々国民が選んだ人物や勢力だし、マスコミ各社で働く人々は少なくとも人間のはずである。両者とも概ね知能水準は標準偏差的に上位のはずだ。

だから彼らに対して「もう少しマトモであれ」という要求は既に「高望み」の感が否めない。

とは言え酷いことに変わりはない。そこは事実として酷い。ただその根っこには我々国民全体に見えにくいダークマターのように広がる問題がある。

政治家もマスコミも国民の写し鏡でしかない

簡単に言えば、政治家は選挙に対して適応しているだけだし、マスコミは現在のビジネス環境に適応しているだけにすぎない。

それぞれ主義や主張やプライドはあるにしても、政治家は選挙に勝てなきゃ意味がなく、マスコミも売上やPVや視聴率が悪ければ商売として成り立たない。勝つために、数字を取るために彼らは何をやっているのか。

政治家側は理念や政策などを勉強して訴えかけても選挙で当選できないのなら、そんな努力は時間の無駄だ。もっと「ウケ」の良い方法があるならそちらに飛び乗るだろう。その場合当然政策についての能力は無くなっていく。

マスコミ側も本来必要な政治課題などを伝えるよりも、「不安」や「憤り」などの感情を煽ったほうが数字が取れるのであればそちらが優先される。そしてそんな報道を繰り返していればジャーナリズムとしての機能も能力も当然なくなっていく。

それもこれも国民の側に理念や政策や法案に「そもそも興味がない」のだから仕方がない。彼ら政治や報道が何に適応しているかと言えば、我々国民に適応しているだけなのだ。

政治の本質からずれた「ウケ狙い」とジャーナリズムの本分から逸れた「ウケ狙い」に、安易に飛びついて、消費して、咀嚼しているのは我々なのだ。

現代のご馳走と快楽

一番顕著な例は炎上コンテンツだろう。飛散して大量消費されるこのコンテンツはマスコミにとってもおいしい。「不祥事」とそれに対する「感情的な糾弾」を「召し上がれ」とセットで提供すればいい。見た者の各々の道徳観で一方的に裁ける内容であればなおのこと良い。実生活では普段希薄な連帯意識(感情の共有)までもが獲得できてしまう。

もはや快楽と言っていいだろう。事実関係の整理で十分なはずなのに、延々と感情的に演出された情報を垂れ流している。しかし我々はそんな低俗なものを最も好むのだ。

大好物の餌を拒むことが出来ない無垢な愛玩動物のように、すぐに飛びついて口の中に入れてしまうのだ。そして自身は何をしているわけでもないのに、「自分は正しいことをしている」という感覚になれてしまう。SNSを見ていればイヤというほどわかる。

国民が政治の本質に興味がなければ、当然報道のレベルは低くなるし、選挙は理念や政策とは無関係なただの人気投票になるのは必然だ。その結果、実際にに執り行われる政治も程度が低くなっていく。

人々は何を望んでいるのか

従って繰り返しになるが、政治家は政策などを訴えるよりも「醜聞合戦」や「罵り合い」や「事実より国民感情を優先」したほうがより得票できると極めてナチュラルに判断しているし、報道も政策や法案について腰の入った解説や議論を行うよりも、スキャンダルや不祥事や個人攻撃などを延々と扱ったほうが圧倒的に数字が取れるのだ。

マスコミ側はPVや視聴率といった形で瞬時に結果として現れるため、国民の趣向がよりダイレクトに反映されている。そう。大変にありがたいことに彼らは我々の知能レベルにピッタリで、私達国民が見たいものを見せてくれているにすぎない。

乱暴に言えば、愚かな国民に好かれるために、一生懸命程度の低い政治と報道がなされていることになる。

逆から言えば、真面目に程度の高いことをやったところで報われないのだ。誰も興味が無いのだ。見ないのだ。儲からないし当選しないのだ。

残念なダークマター

そんなことを長らく(※いつから?)やっていたお陰で、どの立場の人間も徐々に「本来あるべき姿」を忘れてしまった。政治家もマスコミもあなたも私もみんな。

生まれた瞬間からこのような価値観で育ち、社会や会社に組み込まれれば「本来あるべき姿」などは嘲笑されかねない。

本分から逸れて”あえて”「ウケ(得票や視聴率など)」を狙ってやっていたことは、何年か何十年かをかけて彼らにとって本分にすり替わる。

そして残念なことにこの状況が現在の「あるべき姿」となったのだ。だから彼らには「程度の低い政治と報道」をやっている自覚はもうない。それこそが彼らの本分だとして胸を張って仕事を遂行しているはずだ。

今広がっているこの状況は、我々国民全体が持つ「残念なダークマター」とでも呼ぶべき負の性質に、政治家やマスコミが長い時間をかけてお互いが循環しながら相互作用した結果で、水が低い方へ流れるのと似ていて、どうすることも出来ない自然現象のようにみえる。

この連鎖は世代をかけてゆっくり引き継がれ、更により低い方へと重力に負けていくのだ。エントロピーの概念にも似ていて、ポテンシャルの高い状態から低い方へとただただ不可逆的に流れていく。

もう一つ付け加えるならば、国民に賢くなってもらっても困るのだ。特にマスコミにとっては制度や構造上の大小様々な既得権益については触れてほしくない部分がたくさんある。従って自らの足元を正す方向に何の得もない。愚かな国民のままでいてもらったほうが、ほぼ全ての場合において都合がいい。このような様々な悪循環が全体を覆っている。

偉そうな反省と同情

自分でも驚くほど、自分自身をまるで脇において随分と乱暴に国民全体を軽々しく蔑んだ内容になってしまった。

ただここでも一方的に我々国民自身を蔑むのも違うのだ。そう。この状況には仕方ない面がある。政治家もマスコミも一方的に責めることが出来ないのと同様に、国民にも同情の余地が残されている。歴史的で構造的などうしようもない問題がある。

簡単に言ってしまえば、大多数が特に困らず飯を食えているような期間が長く続いたのだ。もう少し踏み込んで言えば、その根本には主権について深く考える必要もなく、その機会も奪われてきた経緯がある。運がいいのか悪いのか、効力や良し悪しは別として、強大な他国にその軍事力を依存してきたことと、その関係性がこの構造を生んでいる。

大多数の国民にとって政治や自治を自らの問題として考える必要性も無ければ、それを育む下地もない。個人も国家も自立する必要が無いのだ。ある意味において相当な幸運に恵まれているとも言える。

これが悪だと言うつもりもない。事実がそうなっているというだけだ。実際にこの状況下において、我々はあまり何も考えなくても平和であったし、ある時期においては経済的に天下を掴みかけたのだ。このレジームで結構な「得」をしてきたのだ。

少しの脱線

少し話が逸れるが「日本は国際社会でリーダーシップを」などとよく聞く。しかしあり得ないのは明白だ。逆になんの夢を見ているんだと問いかけたくなる。

自立できていない人の話を聞くわけがない。重要事項をそんな人に頼りたくない。「頼りたくない」などという積極的な忌避行動にすらならない。意地悪でもなんでもなく無意識に視界から消えるはずだ。誰でもそうだろう。

夢の国

夢といえばディズニーランドのような夢の国がまさに国単位で存在しているのが日本(一部地域を除く)なのかもしれない。都合の悪いものや、見たくないものは見なくて済んでしまう。バックヤードについては無かったことにされるのだ。もはや「バックヤードの存在すら知らない」と言ったほうが適切かもしれない。

これでは政治に関心を持つインセンティブが用意できない国民と社会が構築されるのは自然の成り行きで仕方のない話だ。皮肉でもなんでもなく本当に仕方ないのだ。

そうだ。ここまでは仕方ない。誰も悪くない?ほうほう。さてどこまで仕方ない社会が続くのか。

いやいや。そもそも転換するべきなのか。転換する必要性がなければ別にこのままでもいいという考えもあるだろう。どんなに歪んでようが夢の国が滅亡せずに存続可能なのであれば、それはそれで結構なことだとも言える。

したたかで戦略的な判断の上で夢の国であることを自ら選択し続けられるのであれば、一定の評価を与えてもいいだろう。「国際社会における地位と尊厳」と「国民が崇高なメンタリティーを持つ可能性」を破棄するとしても。

目覚めるべきなのか

夢の国に浸っている我々自らが脱却と転換を目指すというのは、相当に難易度の高いクエストになる。ほぼ不可能に近い。主権が様々な形で侵害されても我々は深い眠りから目覚めないという強い睡眠薬を飲んでいるのだ。

それでもいつか我々は選択するだろう。自らで選べないのであれば、どこかで選択せざるを得ない状況になるはずだ。この場合残念ながら相当な危機的状況のはずだ。さらにいえばその決断を国民の側に受け入れる用意もないだろう。

その時我々は、もしくは我々の子孫は、夢の国から目覚めて動物が生きていくという血生臭を現実として受け入れて地に足を下ろすのか。それとも暖かい布団の中で二度寝三度寝すらも貪った虚構で目覚まし時計をも投げ捨てるのか。またはどちらも選択せずに、欺瞞で捻じ曲げられた永遠のモラトリアムで藁でもつかむのか。

ホモ・サピエンスの限界

脱却と転換によって少なくとも眼前の稚拙な茶番劇は終わるのだ。酷い政治?レベルの低い報道?愚かな国民?これらが解決するのか。すばらしい。ならば早々に自立すべきだろう。ウンザリすることすら疲れ果てた現状に親指を突き立ててグッバイできるんだろう?

当然だがそんなに上手く行かない。すぐに次のステージの茶番が始まるだけだ。そしてこの茶番のほうがもっと根も業も深いというのが70歳を超えたピーターパンには荷が重い。しかし自立とはそういうものだ。

常識的に考えて自立すべきなのは明らかだが、実際問題として「明日から」どちらを目指すべきなのか正直私にはわからない。大した教養も体力もなく、扱い方の基礎すら知らない薙刀を威勢よく振り回しているような口だけ千人長風情では、道筋の付け方もわからない。実際「今のままでいい」という人がほとんどだろうし、私も少し眠くなってきた。

加えて、たとえ夢から醒めようが自立しようが、必ずしも素晴らしい国民と国家になれるわけでもないのは、他国を見ていればよくわかることだ。これは中々に歯ごたえのある虚無感だ。

程度や舞台の差はあれど皆それぞれ与えられた局面で、どの国もどの社会も同じような欺瞞に溢れた泥仕合や思考停止を繰り返しているわけだ。こんなんじゃあ「人間とはそういうものだ」などというニヒリズムの地下牢に閉じこもるほかない。

歴史的に見てもそこそこのレアケースを歩んでいる我々は一体どこへ向かうのか。50年先、100年先、200年先、1000年先の世界史がどうなっているのか。興味深い。

この文章が特定の個人、もしくは何らかの勢力や政党などを中傷しているように見えたり、逆に讃えたりしているように見えている場合は、残念なダークマターに他の人より重度に侵食されているかも知れない。

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