テレビはつまらなくなったのか

テレビが「つまらなくなった」と言われて久しい。様々な資料などを見ていると、1990年代初頭には既に随分と言われているようだ。人は過去を美化する癖があるので、常に言われ続けていても不思議ではない。

先に述べておくと、今のテレビが昔に比べて本当に『つまらない』のかは、判断が難しい。しかしいくつかの要因によって、人々がテレビを『見なくなった』のは間違いがなく、少なくとも過去20年の視聴率や専有時間などのデータではっきりと示されている。今回はその要因を考えてみる。

※ジャンルは定めていないつもりだったが、主にバラエティー番組について述べている。

要因はたくさんあるが、個人的に気になったのは「テロップ」「CMまたぎ」「システム化」だ。これは「クイズダービーの感想」を書いていた時に感じたことである。

と、その前に、まずは視聴者がテレビから離れていった主な要因について述べる。「少子高齢化」や「ネット出現」などの重要な要因を触れずに終えるわけにもいくまい。

視聴者を減らしたとする代表例

少子高齢化

少子高齢化となり、主なターゲットが高齢者となりやすい。若者に比べてお金もある。となれば自然と「健康食品」に「健康器具」「老眼鏡」などの高齢者向けの商品を扱う企業がスポンサーに並ぶ。

これでは若年層や現役世代が見ても面白いと思うものは生まれにくい。ハナから相手にされていない。起用されるタレントの年齢層も上がり、内容も無難で似通ったものになる。先細りするほかなく、ゆっくりと視聴者数を減らすことになる。若い世代がテレビから影響を受けず、業界を目指さないという悪循環が起こる。

BSフジで夜の帯でやっている「クイズ!脳ベルSHOW」を見れば嫌でもわかる。最初にこの番組を見つけたときは妙な悲しさを感じたのを覚えている。日本の現実が突きつけられた気がした。清々しいほどに超高齢者向けの番組だ。BSとはいえ「プライムタイムの帯(22~23時の月~金)でこれか」とガックリきたのを覚えている。

とはいえ、若いことが常に素晴らしいわけでもない。単に若さが先行するだけでは駄作が量産されるだろう。「テレビが面白い」と言われた時代にもそんな番組は山のようにあるはずだ。

しかし新しい価値はそういった混沌から生まれる側面がある。実験的で前衛的な挑戦から生まれるはずだ。意外性のある才能やそれらの邂逅が新しい時代を開く。新陳代謝は必要だ。

※少子高齢化は、現代の日本の負の側面のすべての元凶と言ってもいい。現実問題としては、日本の全人口が増加に転じるのは当面難しい。まずはとにかくアンバランスな人口分布を是正するよりない。全ての処方箋となり得るので、たくさんの子供が生まれる社会を目指すのが至上命題となる。もしくは少子高齢化と積極的に共存する道もあるのだろうか。

予算(景気)

次は製作費に関わる問題だ。失われた30年となり日本経済の失速は「失速」なのではなく、これが「平時」なのだとわかり始めてきた。というか「わからされた」。テレビ製作に割ける予算は大幅に減り、広告費もネットに抜かれている。

当然、目新しいものは生まれにくいだろう。低視聴率のままで継続する余裕は、金銭的にも心理的にも無くなる。どうしても確実に数字が取れる無難な人選と内容になる。景気が良い時代であれば、金銭的な余裕はそのまま懐の深さを生む。

低予算でもアイディア勝負で良質な番組もあるので金が全てではないが、どう見ても不利なのは間違いがない。「とりあえず挑戦してみよう」という身軽さも失われるし、打ち切りになる判断も早まるだろう。何かを発見したり、何かが育つという土壌が失われてしまう。

これでは野心的な人間は、自分の将来をテレビよりもネットに見出すのではないか。少なくとも分散はしてしまう。テレビを目指して入社する人物やタレントは、相対的に安定志向の人物になると邪推する。資金面は既に凋落しているが、人材面でも楽観できない情勢となってはいないだろうか。実際の実力は別として、ネットからテレビへ輸入されるタレントはもう珍しくない。

ネットの出現

上と部分的にかぶるが、「ネットの出現」が視聴者を減らした一番の原因だろう。ネットと携帯端末の出現によってスマホを眺める時間が増えことで、単純にテレビに割く時間が減った。または、選択肢に上らないということになる。

これは一概に「ネットのほうが面白いから」とも言い切れないところに問題の難しさがある。もちろんネットのほうが面白い部分も多分にあるのでややこしい。

テレビに限らず「若者の〇〇離れ」の原因は、「ネットの出現」でほとんど説明できる。「雑誌」「自動車」「酒(飲み会)」や「恋愛」に至るまで殆ど当てはまる。

とにかく暇つぶしの手段としてネットは最強で、時間や場所の制約もなく凄まじい自由度と自己完結性が同居する夢のようなツールだ。SNSなどのコミュニケーションツールとゲームなどが融合したことで、人は気づかぬうちに時間を浪費する。時に金も吸い取られる。

コンプライアンス

ネットの出現は別の側面も持っている。世間の意見や個人の主張などが細部まで可視化され、ネット以前なら無視されたり封殺されたような出来事が、すべて記録として残るようになった。問題が広く知れ渡ることで、物事の是非が逐一問われる社会となった。

「まあいいじゃないか」という論調は「見かけ上」姿を消し、ルールや法令、マナーを厳密に遵守する風潮が世間を覆う。一旦議題に上がってしまえば勝者は明白で「あるべき論」が常に勝つ。「そんなに目くじらを立てなくても」という意見はほぼ敗北する。厳密に考えればそちらが正しいのだから当然で仕方がない。

これは本来は歓迎すべき出来事のはずだ。例としては「あおり運転問題」だ。ドライブレコーダーによって記録され、それがSNSなどで拡散され大きな問題となった。恐らくドライブレコーダーもネットもない時代から「あおり運転」はあったはずだが、可視化されていなかっただけだ。可視化によって問題が浮き彫りになった。

繰り返しになるが、この例は歓迎されるべきことだ。ただ行き過ぎる側面もある。正しさのみを追いかけると、一部の娯楽は機能停止するのは想像がつく。

「残った食べ物はスタッフがすべて完食しました」「専門家の指導のもと十分に安全に配慮しています」「これは空き容器です」「食品サンプルを用いています」というテロップが表示されたりすることになる。漫才であれば「つっこみ」として叩いた行為が「たとえ同意の元でも、暴力は振るうべきではない」ともなりかねない。実際そういう風潮になっている。

これにより、過去にはできたような派手で思い切った企画や発言が今では制限がかかる。どこに配慮しているのかわからないような放送禁止用語が生まれる。製作の現場で萎縮する。昔では問題視されなかった事が、現代では失言やスキャンダルとなり、場合によっては一発退場となるリスクをはらんでいる。

コンプライアンス、其の二

コンプライアンスの問題は、マクロな視点からみても加速する条件が整っている。都市化やネットの発達が手伝って、各人が近所の人々や親戚よりもシステムやインフラと直結した状態となった。日常生活で出会う人々の大部分が、赤の他人となり、孤立した環境となった。

現代では見ず知らずの他者に対して、「親切にしてあげたら喜ぶであろう」という『淡い相互信頼関係』が崩壊している。仕方ない面もあるが、どうやっても都市部ほどそうなる。言い換えれば、親切にするだけ損で、困っている人を見て見ぬ振りをして「先へ進んだほうが得だ」という価値観が覆っている。

ゆっくりと潮が引くように、社会から様々な種類や規模の「仲間」というグループが弱体化して消滅し「おおらかさ」は消えていく。代わりに他者への敵対心ばかりが煽られ、「会ったこともない人間」への怒りと嫉妬が刺激されている。それらがテレビやSNSなどで光速で伝播し肥大化する社会となった。

不倫や失言、スキャンダルを燃料にして永久機関のごとく廻り続けている。他者への信頼や許容という緩衝材がなくなり、「正しさへの強要」が加速する。

※「仲間」や「おおらかさ」はデメリットもあるので昔が全て良かったわけではない。一番大きいデメリットは汚職や不正だろう。物事はすべて一長一短である。例はいくらでもあるが、昔は飲酒運転が常態化していたのは有名で、少し古い本を読むとよく出てくる話だ。バレさえしなければ社会や仲間内では許容されていたことが伺える。ここでは話が大きく逸れるので別の機会にする。既にやや逸れてしまっているが。

社会の変化

今挙げたこれらの要因は説得力がある。「テレビはつまらなくなったのか」と直球で問われれば、思わず首を縦に振ってしまうだろう。ただ、どの要因も基本的にはテレビ局や製作会社、スポンサーなどのせいではなく、ましてやタレントや視聴者のせいでもない。社会全体の問題であることがわかる。

したがって、個人や企業が「何か努力をして視聴者数を回復する」というようなことは出来ない。言い換えれば、「いくら面白い番組を作ってもテレビ全体での総視聴者数は増えない」となる。とても残念なことではある。

「つまらなくなった」というよりは、「見る機会が奪われた」という方が近い。映画界が栄華を誇ったのちに、テレビ界に抜き去られたのと似ている。

映画はつまらなくなったわけではなく、ある種一定の面白さを提供していたのだが、家で見られるテレビのほうが物理的に「近かった」だけだ。今はテレビよりもネットのほうが近い。物理的距離の問題だ。

簡単なテレビの歴史

ここでテレビの歴史を簡単に振り返っておく。この年表は今回重要ではないが、後学のために記しておく。

  • 1952年 松下電器産業(現パナソニック)が日本初の家電としてテレビを発売
  • 1953年 NHK、日本テレビが放送開始 その後数年で現在の東京の放送局は出揃う。
  • 1959年 明仁親王ご成婚でテレビの普及が進む
  • 1960年 カラー放送開始
  • 1964年東京オリンピックでテレビが一気に普及
  • 1967年 テレビ普及率はほぼ100%に近くなる
  • 1990年 BS放送開始
  • 2003年 地上デジタル放送開始
  • 2012年 アナログ放送完全終了
  • 2018年 4K 8Kテレビ放送開始

本題

主な要因は上記に譲り、ここからは細かいことをネチネチと書くことになる。「少子高齢化」や「ネット出現」などと比べたら大した要因ではないことばかりだが、何かヒントが隠れているかもしれない。

今の番組は親切

ようやく本題。まずはテロップや文字情報について。

現代(2020年時点)の番組は非常にわかりやすく親切にできている。文字情報で常に補足されているおかげで、少し目を離してもすぐ追いつくことができる。テロップや画面隅の文字情報は「今何をしているか」を理解するのに役立つ。

テロップ

「どこのロケに来ているのか」や「出題されている問題は何なのか」や「誰なのか」などが常に表示されている。これはメリットが大きいはずだ。

それだけでなく、会話のやり取りも表示される。これもメリットは大きいだろう。一瞬聞き逃したりしても、同音異義語の判読も瞬時にできる。知らない固有名詞もすぐにそれと分かる。

面白さの押し売り

しかし、コントや漫才のセリフや設定までもがテロップで出るとなると、究極の野暮行為にも見える。流石に私でも違和感は感じてくる。ただ、補足情報や会話のテロップと本質的に「何が違うのか」と問われると困る問題でもある。

文字情報で共通して言えることは、「要点や注目ポイントはここです」という製作側からのメッセージということだ。テロップがある箇所は「今重要な部分です」「この会話で笑ってください」という意図がある。

これが「価値や笑いの押し売り」のような圧迫感を視聴者に与える側面はあるだろう。もしその番組が、そもそもつまらない内容であったり、視聴者の興味のない分野である場合だと顕著になる。

面白くも興味もない内容に、テロップや効果音や編集で注目を集めようとしているならば、それらは輪をかけて「とてもくだらないものに映る」はずだ。文字が派手だったりすれば尚の事である。

『ここです』と面白さを煽っておいて「全くつまらない」となれば、これほど興醒めすることはない。テロップによってくだらなく見える事があるとすれば、そういうカラクリだろう。

批判は耳にするが、なくならない

たしかに昔の番組を見てみると、そんな編集はほとんどされておらず、現代の文字情報は過剰なものに感じることもある。テロップを毛嫌いする人も多い。YouTubeにある古い番組のコメントでもよく見かける。「昔はテロップがなくシンプルで良かった」などは頻出のコメントだ。

しかし、本当に「邪魔で鬱陶しい」と言う意見が正しく多数であるならば、テロップは今の番組から綺麗サッパリなくなっていても良いはずである。テレビは視聴率に関わるなら機敏に反応するからだ。ところが情勢はそうなっていない。おそらくは「鬱陶しさ」と「わかりやすさ」のちょうど間の最適解でバランスしているのだろう。

囚人のジレンマ

テロップなどの情報を出すこと自体は、番組の分かりやすさに繋がり、視聴率に一定の良い効果があるのだろう。どこか一つの局がやり始めて、良い効果が確認されれば他局もやるのは自然な流れだ。

最終的にどの局の番組でも文字情報による、分かりやすい番組で溢れることになる。スマホなどによそ見をしても、トイレに行って帰ってきても分かりやすいだろう。たまたまチャンネルを合わせた瞬間なども、視聴者にすぐ注目させる事ができる。

このようにして文字情報が増殖してきたはずだ。ところがこの状況は、テレビ全体の視聴率を緩やかに下げているかもしれない。どこの局よりもわかりやすい番組を目指して作った結果、テレビ界全体の視聴者数を下げてしまっているのではないかという仮説である。

テロップ

※文字情報が多すぎると分かりやすいのかはもはやわからない

わかりやすさの弊害

テロップや文字情報による弊害が、仮にあるとするならばこんなところだろう。

  1. 「面白さの押し売り」となり、興味のない層や、そもそも面白くない場合にはトコトンくだらなく映る
  2. 「徹底したわかりやすさ」を優先するあまり、リテラシーの最も低い層に照準が合ってしまい、くだらなく映る
  3. 聞き逃すまいとする集中力が不要になったことで、相対的に注意散漫で視聴してしまう
  4. 情報過多となり、相対的にすべての情報の価値が下がる

1つ目の「面白さの押し売り」と、2つ目の「徹底したわかりやすさ」はほぼ同義である。ここで述べている「わかりやすさ」は、難しいニュースをわかりやすく解説するのとは違い、誰もが知っている漢字にルビを振っている態度に近く、「くだらない」印象を与えてしまっている。

3つ目と4つ目はテレビと視聴者の関係性の濃さの話になる。

3つ目については、クイズダービーを見て痛感したことで、現代のテレビを見ている感覚でクイズダービーを視聴していると「あれ?今どんな問題だっけ」となることが多かった。ふと別のことを考えたり、一瞬よそに目をやったりすると、もう問題がわからない。

クイズダービーも問題文についてはアナログなテロップは出るのだが、現代の番組の親切さには及ばない。出題のナレーションが終わればテロップも消える。そのたびに私は30秒ほどシークを戻して問題を再度確認していた。

現代の番組だとそんな事は不要で、一瞬聞き逃したり、少し目を離したくらいではすぐに追いつける。殆どの場合、解答者が考えている間もずっと画面の隅に問題文が出ている。

このことから、昔は随分と真っ直ぐにテレビを視聴していたことが想像できる。たった私一人の事例でこの論理が成立するかはわからないが、個人的にははっきりと差を感じた部分だ。

現代の番組では注意散漫でも視聴に耐えうる大変丁寧な作りになっている。しかしこれが逆に視聴者側の集中力を奪っていたり、のめり込んで見る姿勢を削いでいるような気がした。

4つ目の「情報過多」とも通じる部分がある。情報が多すぎると、すべての情報は受け取れないが、各々が必要とする情報のみをその時々の画面から受け取ればよいということになる。とても便利ではあるのだが、相対的に全体の情報の価値は下がる。

とはいえまだ半信半疑

テロップなどの文字情報は、これらが複合的に組み合わさってテレビ自体の「くだらなさ」や「価値のなさ」や「情熱や集中力の低下」を自ら誘導してしまっているのではないか。

個々の視聴率競争の中ではテロップは有利となるが、テレビ全体としては不利に働いてはいないだろうか。ここに囚人のジレンマのようなものを感じた。

と言いながらも、自分でもまだ半信半疑の宙を浮いている。「わかりやすい番組にしたら全体的に見る人が減る」なんて事は本当にあるのだろうか。うがった見方が過ぎる気もしている。ネットの動画でもテロップは多い。このあたりは微妙なバランスの上に成り立っているのかもしれない。

一つ付け加えておくと、文字情報が増えたのは地デジ化(高精細、縦横比の変更)やテレビの大画面化も一役買っている。

CMまたぎのジレンマ

本題其の二。CMまたぎについて。

例えば以下のようなもの。

  • クイズなどの解答をCM明けにまたぐ
  • タレントなどが目をむいて「えー!」と大声を上げた瞬間CMに行く
  • 口元や重要な対象を?マークで隠して煽っておいてCMに行く
  • いずれもブツ切りのようにCMに行く事が多い

多分これらの手法は、我々が思っている以上に効果的だろう。数字で効果がないのなら(逆効果ならば)テレビ局はやらないはずだからだ。

CMまたぎ

※?マークと効果音で煽りを入れてCMに突入する。

これらについても囚人のジレンマの効果がはたらく。どこか他所の局がやっていたら、自分の番組でやらざるを得ない。CM突入時、CM中、CM明けの視聴率が低いとなるとスポンサーからも注文が付くはずだ。

しかしCMから帰ってきてみたら、本当にすごいことがいつも起こるわけでもない。煽った割には拍子抜けするような些細な結果であることはザラだ。もう少し悪質なものだと、引っ張った内容についてほとんど説明はなく、スタッフロールが流れ始めて番組終了となり、即時にCMに再突入するような番組も多い。

簡単に言えば視聴者を欺いていると言っていい。

他局に負けぬよう、毎分の視聴率を上げるために様々な手法を開発し、うまく行けばその瞬間は視聴率が良いかもしれない。しかしこのような小手先での視聴率稼ぎが繰り返されると、視聴者の信用を緩やかに失うのは必然で、テレビ全体の価値や信用は下がっていく。

全体のパイは失うとしても、自分の番組の今この瞬間の視聴率のほうが大事であるなら、ホントかどうかもわからない全体の不幸などは些末なことだろう。囚人のジレンマは加速する。

Googleの広告ポリシー

Googleの広告ポリシーが厳しいことは有名だ。誤クリックを誘導するような広告の配置を禁止している。これは「ネットの『メディア』としての信用を失いたくない」というまっとうな意図が働いている。

広告を見せたいがために邪魔で執拗な広告がネットに反乱したら、広告への信用を失うと同時に、ネット自体の価値も損ねる。Googleは当たり前のことをしているに過ぎない。

しかし現在の日本のテレビ局は、CMまたぎによる広告への誘導をことさらに狙っている。ネットに置き換えれば「誤クリック」を誘導しているのと同じだ。民放各社は自らの業界団体を通じてCM関連のポリシーを考え直してもいいだろう。

テレビ局は本当の囚人ではないはずだ。他局と意思の疎通が図れるのだから、囚人のジレンマにとらわれずに、全体の利益を考えたほうが良いだろう。

システム化

本題其の三。システム化について。

これは社会の構造的な問題で、編集でどうにかなる上記2つとはやや性格が異なる。製作側で「ほとんど善処しようがない」という点では、冒頭で示した主な要因である「少子高齢化」や「ネットの出現」に近い。

どの分野でもそうだが生産の効率化が求められると、何事も分業制となり、各種のルールが整備され、誰かが抜けても代わりが効くような、永続的な仕組みとしてシステム化される。

これは工業製品からテレビ番組、ときにはスポーツの戦術に至るまで同じことが言える。システム化されると平均的な品質は目を見張るほどに向上する。

ではシステム化以前はどうだったか。どうしても品質にばらつきが出てしまう。明確なルールはなく、一人や少数の突出した才能に頼ることになる。能ある者や権力のある者が横断的に指揮や作業を行うことになる。これでは効率が悪く量産できない。ばらつきを抑えて高品質なものを作るためには、膨大な時間とコストがかかる。デメリットは多い。システム化への道は自然な流れで、人類の歴史そのものかもしれない。

ただシステム化にも弱点はあって「均一」をもたらす。これは特定の分野ではデメリットになる。特に芸術方面には向かない。粗悪品もあるが特大ホームランも放つといった側面が芸術には必要だ。同じものを量産してもあまり意味がない。

テレビ番組は量産する必要性がありながら、芸術的な側面があってバランスが難しい。現在のテレビはもしかするとその弱点が見え隠れしている。

「誰もやったことがない」という企画はとっくに無くなってしまい、技術的にも成熟し、構造と役割に入れ替え可能なタレントを当てはめるだけになってしまっている。工業的で均一化されてきている。

逆説的に言えば、強烈な個性はむしろ邪魔となってしまうはずだ。ルールが多い中では、特別な才能は邪魔になるであろう。様々な配慮が行き届くディレクターや優等生タレントでないと務まりようもない。

システム化によってテレビが玉石混交だった時代は終わり、ネットが大量の粗悪品と僅かな特大ホームランの乱れ飛ぶ場所となった。

しかしこれについては、前述の通りテレビ業界の自助努力ではどうしようもない面がある。今のテレビには粗悪品を世に放つ覚悟でホームランを狙う必要性がそもそもない。そこそこ良ければいいのである。少子高齢化や予算の部分でも述べた通りだ。

これは単純に「昔は皆がリスクと混沌に身を置くしかなく、そうするしかなかった」という(時代背景としての)環境があっただけのことで、現代で時計の針を戻すのは難しい。

そういった意味で、昔は標準偏差が大きくホームランもあるが、今では考えられないような低品質で粗悪な番組も沢山あったと推測する。「昔は良かった」一辺倒な懐古主義にはなりたくないという私の本能が言うには、悲惨な番組は記録にも記憶にも残っていないだけで、閉口したくなる番組は今よりも多かったはずである。

娯楽の中心

確かにテレビは娯楽の中心から降ろされ、「何かのついでに流れているもの」になったのかもしれない。

「テロップ」も「CMまたぎ」も「システム化」も視聴率を良くしようとして行ったことのはずだ。そしてその瞬間は実際に良くなる。しかし全体としては悪策で、ゆっくり沈んでいくのではないか。というのがこれが本稿の主張である。

他局には勝てるが、テレビ業界全体としては負けてしまうのである。

本当にテレビはつまらなくなっているのか

ここまでで、「高齢化」や「ネット」などの主な要因と、私が個人的に感じた「テロップ」「CMまたぎ」「システム化」について述べたが、ここまで書いておきながらも「つまらなくなった」と断言するのは難しい。複雑で計りようがない部分が多すぎる。

ただプラスの材料があるかと問われると、あまり思いつかない。ならば結果的には、「面白さは変わっていない」か「つまらなくなった」のどちらかとなり、分が悪い。もしくは前述したように「面白さの標準偏差が小さくなった」となる。

単純比較しにくい例としては、YouTubeなどに残っている古い番組との対比だ。これらは特別に面白いものが残っている事が多いはずで、強力なバイアスがかかっている。過去の貴重な映像は誰だって面白く感じてしまうものだ。

自分の述べた理屈で言えば、ばらつきが大きいため特大ホームランも多く、それらの過去のヒットやホームランがずらりとYoutubeに並んでいるに等しい。特に当時を知っている人から見れば、懐かしい良い思い出の塊だろうし、視聴時期が幼少期や思春期となれば尚の事だ。

私個人の結論としては「テレビの面白さのばらつきが小さくなった」としておきたい。

個人的なささやかな結論が出たところで、「じゃあどすればいいんだ」という話をする。

映画業界と音楽業界に学ぶ

テレビの視聴者が減ったとしても、面白い番組は今も昔も変わらずあるんだろうと思っている。「どれだ」と言われると心底困るが、「比較はできないだけで存在はする」としか言いようがない。子供のような雑な主張でもうしわけないが、実際には大した違いはないと信じたい。

人間自体に大差はないだろうし、脳自体は何万年も生物学的に変化はないのだ。自分が生きているこの時代をことさらに特殊だ(つまらない or 面白い)とみなすことはあまり優れた発想ではない。

普遍性に傾注しすぎても何も論じられないが、その時代その時代で、面白いと思われることが、面白いと思われている人物によって成されている筈である。

日本の映画産業は1950年代が黄金期だと言われていて、過去の活気をとうに失っているが、(異論はかなりあるだろうが)面白い作品はいつの時代も作られ続けているはずだ。音楽業界も同じで、1990年代の隆盛は輝かしいが、現代においても才能ある者が、優れた音楽を作っているはずである。

しかし、映画業界や音楽業界が示してきたように「良いものを作れば栄光を取り戻せるわけではない」ということが分かっている。

どんなに隆盛を誇っていても、コンテンツの質が特に落ちていなくとも、社会の構造(アクセスの経路など)が変われば、人はそれに時間を割かなくなり、気づけば興味も失っていく。

大衆文化は造り手側と受取り手側の双方に熱気がなければ成立しない事がわかる。

細部に何かが宿る

冒頭部分で紹介した大きな要因(少子高齢化やネット出現など)については、業界としては手の打ちようがない。

しかし、本題として述べてきたこと(特にCMまたぎ)があながち間違いでもないとするなら、テレビ自身が視聴者から夢中になる機会を奪っている可能性はある。細かい話ではあるが、工夫可能な余地が残されているとすれば、もはや細部しかないだろう。

個々の番組が生き残ろうとした結果、テレビ業界全体では信用や価値を失い、緩やかな衰退を自らが助長しているのかもしれない。これらを自助努力で回避できるのであれば、しっかりと考えることも必要だろう。囚人のジレンマには陥らないでほしい。

おわりに – 最後の抵抗

不可抗力に近い「少子高齢化」「予算(景気)」「ネット出現」「コンプライアンス」「システム化」については、殆どどうしようもない。どうしようもない上に影響力が大き過ぎる。

ただ「ネット出現」には対抗手段というか共存手段がある。radikoのように地域別に配信してしまえばいい。これは素人の暴論なのだろうか。地上波とネットで同時配信すべきだと思っている。少なくとも物理的距離は縮まる。

できればコメント投稿できる方が良いだろう。リアルタイムで流れ去るものと、固定で履歴表示されるものとYouTubeのように2つあれば尚良いかもしれない。個人が各々別の空間で視聴するスタイルには、コメントのような相互コミュニケーション機能が不可欠だ。また、他者の感想や資料的説明には価値がある。YouTubeの良識的なコメントはメインのコンテンツを超えることもある。

近年各社は、独自の配信プラットフォーム(HuluやTELASAなど)を有料サービスとして整備してきた。これはこれでいいのだが、民法各社、できればNHKも含めて同一のプラットフォーム(同一ドメイン)上で運営するメディアが必要だろう。地上波の全番組をテレビと同時配信するべきで、TVerはその準備段階なのだと信じたい。今のTVerは惜しい。テレビ業界の最後のプライドみたいなものが邪魔をしているようにも見える。

結局は分散することで体力負けしてきた。ネットと分岐し、多チャンネル化し、社会自体も多様化した。分散を避けるには「面白いもの、便利なものが全てある」という認知が必要だ。若年層にとってYouTubeはそうなった。Twitchは健闘しているが、ニコニコ動画やその他有象無象は死に絶えた。

ニッチを狙う戦略は必要だが、ネットでは「一強」が圧倒的な支配権を握るのを吐き気がするほど見てきたはずだ。「GAFAに勝て」とは言わないが、同じ轍を踏まぬようにしてほしい。

映画産業もテレビが始まりたての頃、テレビとの協力関係を拒否していた。看板俳優をテレビに出さなかったり、映画のテレビへの配信も制限している。勝てる戦だと思っていたのか、呑気だったのかはわからないが、徹底抗戦(五社協定)を挑んでいる。この辺の歴史も調べると面白い。

音楽業界も同様で、日本の各レコード会社がネット黎明期にインターネットに対してものすごい拒否反応を示した。半ば無理矢理に独自規格を生み出しては内外から批判を浴び、旧来の業態に固執したことで、音楽配信サービスなどを率先して日本で生み出すことも出来ず、プロモーションの場も失い、後手に回ってきた歴史がある。

その結果、映画も音楽も国外の企業にマージンを支払うビジネスモデルが主流となってしまった。AmazonやNetflix、Appleなどの傘下に収められているといっていい。テレビ業界はそれらよりは幸運な川を下っているが、大枠では同じ路線である。

※日本経済の体力低下はこの辺にも一端がある。国際的な競争力を持つ規模の時価総額を誇る日本企業が消え失せている。2020年現在でほぼアメリカと中国企業しかいない。どこか別の記事でも書いたが、惜しむらくはIT系などで一社でもGAFAに迫るくらいの規模の日本企業があれば、もう少し現代は明るい日が差していたかもしれない。バブルの頃と比較するのは不適切かもしれないが、80年代後半は日本企業が上位の大半を占めている。私はこれに驚きと、ある種の羨ましさを感じてしまう。

面白いものを作る努力はもちろん必要だが、コンテンツが人々へ到達する経路を模索することも、それ以上に重要である。映画業界と音楽業界を反面教師にしていただきたい。ただ業界団体ほど権益保護が最優先で硬直化した体制はなく、身動きできない気もするので、同情はする。時勢より10年や20年も古い意思決定を平然としてしまうのだ。

 

音楽業界の衰退については、「なぜ日本の音楽業界は衰退したのか」でネチネチ書いているのでよろしければご覧いただきたい。

また、本稿を書くきっかけとなった「クイズダービー」の感想も読んでいただければ幸いである。こちらはネチネチしていない。

 

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