なぜ日本の役者は演技が下手なのか

はじめに

日本のドラマに出てくる役者は何故あんなに演技が下手なのだろうか。ある程度真剣に考えたい。素人の戯言にすぎないが、単に悲観したり優劣のみを語るのではなく、もちろん煽ったり蔑むのではなく、理由を考えたい。

日本の役者のオーバーアクション

基本的に日本の役者は皆「\演技中です/」というマークを頭上に出っぱなしでセリフを喋っている。たまに上手い人がいるが作中1人でもいればいい方で、殆ど全員が演技者としての最低限の役割しかこなせていない。

最低限とは「言葉が聞き取れて、その時の感情はどのようなものかが分かる状態」となる。これはストーリが理解できるための最低条件だが、実際はこれでだけでは不十分だ。上記を満たすだけなら基本的に誰でも出来る。中学生のクラス演劇でも可能だからだ。

そして大概の演者は表情や抑揚は普通の人間より極端にオーバーなものとなってしまう。最低限の条件を懸命に果たすためなのだろうか。どれもこれも大げさになってしまうのだ。

本来要求されるレベルは、そこで確かに生きていた人の姿としてありのままに見せることだ。これが難しいことはわかる。ただ役者として仕事をしている以上、達成されるべき水準のはずだ。少なくとも見ているこちらが恥ずかしい思いをするような演技はやめて欲しい。そう信じたい。

ベテラン俳優とされる人でも下手な人が多い。上述の最低限の役割を演じるのが小慣れているだけで、記号として優秀だが役者としては不十分だ。小慣れているだけの中堅、ベテラン俳優は多い。

人生があり人がそこで生き証として物語がある。そこにたまたま無人のカメラがあったので我々はドラマとして鑑賞できている。という一番重要な「建前」が達成されていない。もろに「一生懸命演技をしている人」を見させられている。

今私は嬉しいんです。怒っているんです。という演技の状態を見させられているのだ。

海外ドラマに違和感がないのは何故か

私は友人らの勧めもあり専ら海外ドラマ(字幕)、たまに映画を見ているが、日本のドラマで感じる演技の違和感を感じることは殆どない。見ているこっちが恥ずかしくなって、数秒で画面を閉じることもない。その理由として「海外ドラマは外国語なので演技の上手下手が見分けづらいからだ」という持論を持っていた。

海外ドラマは当然外国語なので、英語などのヒアリング能力のない筆者にとって演技の下手さ加減が少々わかりにくい。だから自然に視聴できるのだと思っていた。従って、私がもしネイティブ並みの英語力があったなら、海外ドラマでも「下手な役者の違和感を感じるはずだ」と考えていた。

「そう。演技が下手なのは日本人だけじゃない。欧米の役者も下手なはずだ。似たようなものだろう。ただ私が英語やフランス語を理解できないので下手さが伝わってないだけだ」そういう理解をしていた。

もう少し言い換えれば「海外の役者の演技の上手い下手を理解できない私が、ただただ日本の役者を責めるのはフェアじゃない」そういう発想だ。

申し訳ないがはっきり言って「数秒で再生停止してしまうような日本の役者」に対して最大限の敬意を払った、私なりの結論だった。

ところが。

デーブ・スペクター 日本の役者の演技力に「ぶっちぎりで最悪」

どうやら海外のドラマは演技面でも優秀らしい。英語は当然ながら日本語もネイティブ並な彼から見た評価なのだろうから間違いないのだろう。何年も日本のテレビ畑で飯を食っていて干される可能性があっても言いたかったことなのだろう。恐らく根底には日本のドラマでも面白ものを沢山作って欲しいという願いがあるはずだ。

連ドラに出演する役者の8割は、とにかく芝居が大げさで「わたし、いま演技してまぁす!」と顔に書いてある。それに、喋り方が不自然だからセリフに集中できない。以前から不思議に思ってるんですが、日本の役者はセリフの途中に奇妙な間を一拍置くんです。「なんで、そういうことを、言うんだ、君は?」といった感じで。あと、セリフの語尾で息を吐きますよね。「この前さ(はぁー)、どうして(へぇー)」、と。溜めを作って聞きやすくしているつもりかもしれないけど、セリフが隙間だらけで素人っぽい印象しか残らない。だって、僕らが会話をする時に、そんな勿体ぶった喋り方しないでしょ。その上、すぐに感情を剥き出しにして怒鳴る。大声でセリフを叫ぶことが、気持ちのこもった演技だと勘違いしてるんだろうね。

私の持論は一部肯定的に否定されたことになる。すなわち、残念なことに日本の役者だけが下手なのだ。日本の役者に対する思いやりと同情は不要になってしまった。

この引用文章の後、日本のテレビ業界の問題点を指摘しているデーブ・スペクター氏だが、それも確かに大きな問題だろう。ぜひ改善してもらいたい。

しかし何故、揃いも揃って大部分の役者がこのような酷い演技になってしまうのだろうか。主演クラスにアイドルなどが起用されて下手なのはわかるが、ベテラン中堅クラスも何年も役者のキャリアを積んでいながらみな大根なのだろうか。もしくは記号止まりなのだろうか。あまりにも多すぎる。

日本の演劇界を素人が大上段から憂うという暴挙

日本のドラマの現場では「記号」がゴールになっているのではないだろうか。演劇のような派手な感情表現がゴールになっているのだろうか。もしかすると脚本やシーン構成の都合上「記号」のほうが都合がいいのかもしれない。制作サイドがそう思っているとしたら物凄く悲しいことだ。

高水準な演技を見せる役者がこれほどまでに少なく、層の薄い日本の事情を見ると、余計な心配までしてしまうわけだが、3つ原因を考えてみた。

1:現場で求められていない

一つは上述したように、「そもそも現場では自然な演技は求められていない」というものだ。どちらかと言えば記号的な演技が求められているのではないか。

カット割りや脚本や演出の都合上、分かりやすい表現が多用されている可能性がある。もしそうだとするならば、制作側の怠慢と言ってもいい。怠慢ではなく能力そのものがない可能性もある。

積極的に記号的な演技を求める場合もあれば、役者の能力面などから仕方なく妥協せざるを得ないとしているのとの両輪でこのような悲惨な現状を招いている可能性がある。

2:指導方法、指導者

もう一つはかなりの大上段からの大鉈なので素人の戯言だと嬉しいのだが、「日本全体の演劇界(中学高校などからも含めて)の指導の大部分が間違っているのではないか」というものだ。それなりの水準の指導者がそもそもいないという可能性もある。どこかに致命的な欠陥があるのでないかとすら勘ぐりたくもなるほどの惨状なのだ。

スポーツでは間違った指導方法が全国的に何十年間も続けられるというのは珍しくない。ウサギ跳びが間違った指導方法であったし、過去には練習途中の水分補給は厳禁なのが常だったようだが今では考えられない。野球ではピッチャーであれば投球後に肩肘を冷やすことは言語道断だったが、今はすぐさまアイシングする。というようなものだ。

演劇界にも何か根本的に演技指導として誤っている部分があると疑うことはむしろ自然だろう。

3:視聴者に求められていない

最後は視聴者だ。大部分の視聴者が役者の水準について文句がないのであれば、私の戯言はまさにタワゴトで、無視すべきワケの分からない少数意見ということになる。自分の意見を信じてパラフレーズするならば「役者の能力が世間に正当に評価されていないのではないか」ということになる。

3つほど原因を考えてみたが部外者からは分かりづらい。残念ながらどれも現状に至る可能性を推測したに過ぎず根拠がない。詳しい人に話を聞きたい。

アカの他人がここまで興味を引かれてしまうほど、能力のある役者が驚くほど少ないのだ。なぜなのだ。ほんとうに不思議だ。これを惨状と言わずしてなんと言えばいいのだろうか。それくらいお粗末な状態なのだ。

私が求めるのは「確かに人がそこに生きていた」という「質感」だ。この「質感」は現場でも視聴者にも求められていないのだろうか。だとしたら非常に残念だ。

おわりに

以前、私がシン・ゴジラの感想を述べた。その趣旨は概ね本稿と同じだ。その記事を書いた一年後に、その内容を補強してくれるデーブ・スペクター氏の記事に出会った。個人的には同じ思いを抱く人がいるというだけで嬉しいわけだが、本来的には手放しで喜んでいい状況ではない。

水準の高い演者もいるのだ。頑張って欲しい。国産の質の高いドラマを沢山見たい。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

数式を埋めてください *