合理的で予測可能な社会を望む非合理的なヒト

近年の事件や事故の報道などをみると「なぜ防げなかったのか」という問題意識が非常に高いことが窺える。この傾向は、予測と予防が当然可能な社会であるということが議論の前提になっていて、非合理性や理不尽な振る舞いに対してのアレルギー反応と言えるだろう。「法令遵守」や「刑法の厳罰化」の傾向も同じ種類だと考える。

我々は昔の時代に比べて(いつ?)非合理性や理不尽さが排除された生活を営んでいる。子供が突然病気で死ぬ確率も少なく、明日の天気や気温もわかり、大変具合が良い。世の中の不確定要素が時代とともに徐々に排除されてきたし、私が生きている短い間ですらその実感がある。

昨今の「なぜ防げなかったのか」という風潮はその表れで、行き過ぎなければ別にこれは悪いことではない。こうして安心安全、予測可能を目的として技術や制度やインフラが整っていく。個人的にはホームドア※0の設置が非常に印象的だ。

※0:電車の扉ではなく、駅のホームにも柵とドアを設置し、ホームからの転落防止や飛び込み自殺予防の効果が期待されている。

話がやや逸れるが、このような非合理性が排除されている別の側面としては、例えば「幽霊のようなものは人はだんだん信じなくなる」というのもある。霊があるとすれば各”個人”に内在するものであって、客観的に観測可能なものではない※1と誰もが理解し始めるからだ。科学的な文脈で古来からの非合理性が消去されるわかり易い例だ。

※1:誰もがイメージを共有できるため存在すると思ってしまうトリックと言ってもいいし脳のクセと言ってもいい。実際には再現性がなく観測可能でもなく定量化出来ないため科学的には完全に否定される。ただし人間の脳の特性上そういうイメージを各個人が内包しているということは事実だし、そのために他者との「気持ち」の共有は可能だ。従って、「人はなぜ霊的な体験や思想を持つのか」についてある程度科学的に扱うことは可能だろう。

こうした科学技術をベースにした合理的で「予測・予防可能な社会」が浸透すればするほど、ヒト個人個人が持つ生き物としての非合理性と折り合いがつかなくなってくるんじゃないだろうかという疑問が湧く。論理的な「AならばB」といったようなもので埋め尽くされた環境では、気分や感情だったり、より本能的な部分※2※3が忌避され、人は窮屈さを感じるはずだ。

※2: 性、食、睡眠、排泄など

※3: 同様に子供も忌避され、その風潮のなかで育つことになる。本来子供は、理性的でもなく社会的でもない「予想できない」ものであるが、近年の個人化した社会と合理性によって急激に社会化していくことになり、かなりの若年から子供であることが許されず矯正されることになる。半ば無理やり矯正されるので、アンバランスな少年時代・思春期となるのは目に見えている。都市部ほどこの傾向は強烈なはずである。

また、身の回りのミクロな視点では非常に合理的で予測可能で便利な社会が急速に浸透しているに対して、マクロな視点になるととたんに予測不可能で複雑な社会問題が転がっていることに気づく。

こうした社会や国家の単位で抱える問題は、解すらよくわからないレベルに達していたり、意見の一致が不可能であったり、「誰もが不幸になる最適解」しか残されていないことも多い。問題解決に割けるリソースも有限で、優先順位付けにも苦慮することになり、解決策があっても選択できるかはまた別になる。

従って、予測可能で合理的で安心安全な社会をどんなに目指しても、最終的には各個人の中にある動物的な非合理性と、その集合である社会のもつ非合理性や予測不可能性からくる不条理には打ち勝てない。

科学技術の進歩によってますます合理性に感化されていく人類は、身の回りがどんどん便利で快適になっていくことを良しとする一方で、個人と大衆の両面の非合理性を目の当たりにし、益々自分自身に失望していくはずである。その失望の果には人智を超えた合理性の塊であるAIが待っている。

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