合理的で予測可能な社会を望む非合理的なヒト

近年の事件や事故の報道などをみると「なぜ防げなかったのか」という問題意識が非常に高いことが窺える。これは「予測と予防が当然可能な社会である」ということが議論の前提になっている証左だ。非合理性や理不尽な振る舞いに対してのアレルギー反応と言える。「法令遵守」や「刑法の厳罰化」の傾向も同じ種類だ。「まあまあ、それくらいいいじゃないか」という大らかさは現代ではほぼ通用しなくなった。人を信じるよりも法や制度を信じたほうが良いという時代の流れだ。

我々は昔の時代に比べて(いつ?)非合理性や理不尽さが排除された生活を営んでいる。子供が突然病気で死ぬ確率も少なく、明日の天気や気温も分かり、目的地にへ向かうのに「どの経路で何時に到着するか」も軽々と事前に調べ、待ち合わせ相手が遅れてくるのかどうかも連絡可能だ。大変具合が良い。世の中の不確定要素が時代とともに排除されてきた。

これは悪いことではないはずだ。科学技術によって安心と安全、快適さと便利さが確保されていく。予測可能、予防可能を目的として技術や制度やインフラが整っていく。近年の例では、ホームドア※0の設置が非常に印象的だ。

※0:電車の扉ではなく、駅のホームにも柵とドアを設置し、ホームからの転落防止や飛び込み自殺予防の効果が期待されている。

しかし、こうした科学技術をベースにした合理的で「予測・予防可能な社会」が浸透すればするほど、ヒト個人個人が持つ生き物としての非合理性と、折り合いがつかなくなってくるんじゃないだろうかという疑問が湧く。論理的な「AならばB」といったようなもので埋め尽くされた環境では、気分や感情だったり、より本能的な部分※1が忌避され、人は窮屈さを感じるのではないか。

※1: 性、食、子供、睡眠、排泄など

本来子供は、理性的でもなく社会的でもない「予想できない」ものであるが、システムと法と合理性が支配する社会では、幼い頃から子供であることが矯正されることになる。都市部ほどこの傾向は強烈だろう。隅々まで合理性が行き届いた社会は子供と相性が悪いはずだ。少子化の遠因となっている可能性がある。もしかしたら最も重大な原因かもしれない。

また、身の回りのミクロな視点では、合理的で予測可能で便利な社会が急速に浸透しているに対して、マクロな視点になると途端に予測不可能で複雑な社会問題が転がっていることに気づく。

こうした社会や国家やそれを超えた単位で抱える問題は、解すらよくわからないレベルに達していたり、「誰もが不幸になる最適解」しか残されていないことも多い。そもそも合意形成が不可能だったり、問題解決に割けるリソースも有限で、優先順位付けにも苦慮することになり、解決策があっても選択できるかはまた別になる。

従って、予測可能で合理的で安心安全な社会をどんなに目指しても、最終的には各個人の中にある動物的な非合理性と、その集合である社会のもつ非合理性や予測不可能性からくる不条理には打ち勝てるはずもない。

科学技術の進歩によってますます合理性に感化されていく人類は、身の回りがどんどん便利で快適になっていくことを良しとする一方で、個人と大衆の両面の非合理性を目の当たりにし、益々ヒトとしての自分自身に失望していくはずである。その失望の果には人智を超えた合理性の塊であるAIが待っている。

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