映画「戦場のメリークリスマス」1983年 の感想

戦場のメリークリスマス

古い番組について調べていたら、今度はビートたけし氏について興味が出てきてしまい、彼が監督した映画もいくつか視聴。今回はたけし氏が出演した方の映画「戦場のメリークリスマス」について述べる。

見る前の印象

「戦場のメリークリスマス」の曲のほうは、作曲を趣味としている身としては憧れの曲と言ってもいいくらいに、何度も聞いたことがあったが、映画のほうはあらすじすら知らなかった。

今までは全く興味の対象外であったし、世代が違うために白黒映画くらいの隔世を感じていたのだ。

今回はビートたけし氏を調べているうちに、Amazonプライムにて配信されていることを知り視聴に至った。

見てすぐの印象

見始めてすぐ気になったのは、何を喋っているのか分かりづらいという点だ。日本人の日本語も、外国人が喋る日本語も、どちらも大変に分かりづらい。外国語でしゃべるシーンのほうが字幕のおかげで理解できるという妙な事が起きている。

しかし、しばらく見ているとあまり気にならなくなってくる。見終わってみるとそんな事はどうでもいいことだったと分かる。

娯楽映画として

この映画を娯楽作品と捉えると、たぶん殆ど面白みはない。恐らく脚本の時点からドラマ性はないのだから当然だろう。それを自覚してか無自覚なのかはわからないが、「つまらない」とする評は結構多く、その意見はその点であっていると思う。

メッセージ性

また、戦争や正義や善悪、性愛や友情などについて、この映画から厳密に意味を見出そうとすると、これも多分つまらなくなる。構図として様々な要素は点在しているが、そもそも何を言っているか聞き取れないくらいなのだ。真正面からそのようなテーマで描いていないし、そういう類のものではない。

原田知世氏とビートたけし氏

にもかかわらず私はこの映画を面白いと感じたのだが、「どこが面白いのか」と問われると自分でも判然としない。

ただ、ラストのたけし氏の笑顔に「時をかける少女」の原田知世氏の笑顔と同じものが見えたときに、自分自身としては腑に落ちた。

原田知世氏は役者の能力としてではなく、一人の少女としての魅力がその映画に表れたのだが、それと似たようなことがビートたけし氏で起こっている。

この映画もラストシーンにすべてが詰まっている。途中の捕虜の回想シーンなどは結構退屈だったが、それらがすべて吹き飛んでしまった。

そこに生きた人として存在している

ラストのビートたけし氏は演技の上手い下手をある意味超えてしまっている。「確かにそこにいた」人物としての迫力がある。おそらくは、演技などの技術論などでは到底出しようのない出力で存在感が出ている。

演技が上手いのではない。下町の末っ子として育った生来の愛嬌のようなものが溢れてしまっている。

それが物語の中の前半部分の粗暴な役柄とのギャップに(偶然か必然か)うまくマッチしている。「死ぬのは怖くない」だの「戦争で命を捧げる」だの「行による断食」だのと、外国人からすると到底非合理な訳の分からない大日本帝国軍人も、「戦争が終わってしまえば、一介の愛嬌のある普通の人間である」という、明快で映画的な回答がたけし氏の怪演によってようやく提示される。

演出も素晴らしい。明日処刑というところに訪ねてきた元捕虜とは立場が逆転しており、ビートたけし氏が扮するハラ軍曹は大変穏やかに応対する。しかし元捕虜が立ち去る寸前に、とつぜん急に昔の間柄に戻ったかのような、粗暴な呼びかけで「ローレンス!」と呼び止めるのも良く出来ている。

この奇跡的な「メリークリスマス」なシーンがなければ多分すべてがつまらないままで、映画的な回答すらも用意できずに全てが空中分解するはずだ。

他のビートたけし氏の出演部分はそれほど良くは出来ていないので、ラストシーンは奇跡的と言っていい。これが撮れただけでも本作において大島渚氏は最大限に評価されて良い。

古い映画ということもあり、私の悪い癖でもあるのだが、どうしても資料的な側面で鑑賞してしまったが、これはこれで一つの側面を示していると信じたい。

なぜ日本の役者は演技が下手なのか」も合わせてどうぞ。

また「映画「時をかける少女 」1983年 原田知世 主演 の感想」もどうぞ。

戦場のメリークリスマス

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