花は生々しすぎて少し苦手だ。どうしても「必死に命を咲かせている」という印象が頭をよぎる。一般的なイメージと思われる「きれい」「かわいい」なども当然理解できるが、同時に生き物としての生々しさが強調されて見えてしまう。
野に咲いている花は生々しいもののそこまで苦手ではないかもしれない。それも遠目なら苦手意識は感じないことが多い。花瓶に挿してある花が一番よくない。切断済みというのもどこかつらい。死ぬことが確定させられた状態で、人の見世物になっているのが駄目なのかもしれない。この辺の細かな理由は自分でもよくわからない。
いやいや。そもそも花の命は短い。いちいち気にするものではない。それに花瓶に挿してあるならばちゃんと水もある。切られていたとしてもある程度大丈夫なんだろう。生々しいと言ったって、言葉を喋るわけでもなく鳴くわけでもない。動くわけでもない。
そのはずなのだが、私は花に対して妙に生死を生々しく捉えてしまう。
一方、母は花が好きだ。特にフラワーアレンジメントに興味があるらしく習っていたこともあった。花屋にある時点で既に切り取られている花たちではあるが、更に母によってパッチンパッチン切られて花瓶に佇んだり、華やかに装飾されていたりする。当然人様の趣味に全く文句はない。不快感も感じない。それよりも「なぜ自分は花が苦手なのか」という感覚が支配的になる。
このように感じてしまう自分自身に違和感がある。昔から花はそう親しまれてきたのに、なぜ自分だけが(もしくは少数派として)このようなイメージをもっているのか。少し考えてみる。
- まず「じゃあ草はどうなんだ」というのがある。草に生々しさは感じない。それは何故なのか。全くわからない。程度の閾値として花とそれ意外では明確に線が引かれているかもしれない。もしかすると程度問題ではないかもしれない。花それ自体になにか固執しているのかもしれない。
- 花瓶の花が苦手な問題を「生死」の問題だとするならば、自分は毎日「うまいうまい」と殺生済みの鳥や魚や豚を食い散らかしているじゃないか。たまには残す有様だ。なんで花の生死を気にしているんだ。ハンバーグに花同様の苦手意識が何故ないのか。それなら親子丼なんか残酷にもほどがあるんじゃないか。美味しく頂いているのは矛盾なんじゃないか。
- 過程の問題なのか。死にゆく様と捉えて生々しいと感じると駄目なのか。それならば刺し身や活造りはどうなんだ。ウマイウマイと食べている。
上の疑問を解くようなものではないが、ぼんやりと想像する「ある程度自分で納得している理屈」はあって、かなり飛躍があるが次のようなものだと考えている。
この花に対する苦手意識は、小さな頃から都市化された環境のみで育ち、生き物の生死などから縁遠く、温々と見たくないものを見ないで済むように生きてきた私の弱点の現れ方の一つなのではないかという気がしている。この現れ方は人によって様々に出てくるもので、私の場合は「花」に現れたんじゃないだろうか。花以外にも全く別の出方で色々現れているとも思う。
「花が苦手だ」という人はこれまで私の他に一人だけ出会ったことがある。全く同じ理由だった。やはりどこか生々しいのだ。その方は女性だった。その人以外では、同調してもらえた記憶がない。
氷漬けの魚がスケートリンクに埋まっていることが「不適切」ということで中止された話を聞いて、魚の方は既に死体だが、自分の花が苦手な部分とどこか関連している気がした。
私がそのスケート場に行ったら何を思うのだろうか。ただ間違いなく言えるのは主催者を非難する気分にはならないということだ。別にそういう催し物はご自由にやったらいい。残酷だったり食べ物の無駄だとするなら、もっと指摘するべきことが他にあるはずである。花も同じだ。ご自由にやって頂いてかまわないのである。
おかしな話だが、江戸時代にこのような氷漬けの魚の催し物あったら庶民の反応はどうなるのだろうか。ものすごく楽しんでいる情景が思い浮かんでしまうのは何故なのだろうか。それはどういった推測と偏見に基づいているんだろうか。
コメント
通りすがりで失礼します。
私(女性)も、飾られた花は苦手ですよ~。理由もほぼ同様です。
そして、母は好きで家の中のあちこちにやたら飾りたがる。
SMAPの『世界に一つだけの花』なんかも、歌詞が嫌いです。
「花屋の店先に並んだ~しゃんと胸を張っている」とか
「でもそれって死体の残骸だよね?」と冷めて馬鹿らしく思ったり、
「誰が一番かなんて争うことも~それなのに人間は~」って
むしろ植物界の方がよっぽどシビアで、芽の時期に一番高く背を伸ばして
日の光をよく浴びれるポジションを確保できなかったものは
容赦なく枯れていったりする運命じゃないの、と思ったりします。
ところで、思うに花の生々しさって、それが「生殖器」だから
というのも一因ではないでしょうか?
人間で例えるなら、首から上(=生命の維持に必要な栄養吸収部分=土中の根)を切り離された状態で
チューブで血管に輸液でも送り込んで循環させながら数日間は死体の新鮮さを保ち、
逆立ちで股間をガバッとご開帳されてマ●コとか思いっきり晒しながら
「わぁ~、キレイ~、カワイイ~」と異種族に鑑賞されているみたいな…。
花は咲き終わったその後に栄養を蓄えて実を結ぶはずだった機能の部位だから、なおさら
妊娠初期かこれから赤ちゃんを望む新婚妻を無惨にレイプ殺人したような後味の悪さも伴う。
(まぁ植物と動物の生態は違って、個体の区分が曖昧だし
切り花でも土に挿せば根付いて増える種類もあるから、必ずしも「切り花=死体」とは言えませんが。)
ちなみに、私は田舎育ちです。そこらへん野草だらけです。
子供の頃は、虫や水生生物もよく捕まえました。よく殺しました(キャベツの青虫を潰していくお手伝いとか以外は
あまり積極的な害意があった訳じゃなく、小児が乱暴に弄んでいると虫や小動物はすぐ死ぬ)。
海辺だったので、まだピチピチしている魚を捌くお手伝いも幼稚園とかの頃からしていました。
ネズミなどの哺乳類も殺しました(昔ながらの鉄筒の罠をバケツの水に突っ込んで溺死させるネズミ捕り)。
でも、花瓶に活けてある切花は嫌いです。意図的な無意味な殺しだと思うから。
花は、野の緑の中にポツポツと在ってこそ美しいと思います。
コメントありがとうございます。
私の「花が苦手だ」というのは自分のひ弱さに由来していると考え、
さらには花が苦手な同様の他者にも一般化可能な類推かと想像していましたが、
必ずしもそうではなさそうですね。
生殖器由来の生々しさを感じているというのがまずはありそうです。
機能として生々しさを背負っているわけですので、
ここに何か引っかかりを覚えてしまう人は花が苦手になるのかもしれません。
とすると性に対する感受性が強いということなのかどうなのか、
それが意味することとは何なのか。
頂いた沢山のヒントを基にまたまたぼんやり考えたいと思います。
ありがとうございました。
花が「生々しくて苦手」なんですか。興味深い。
(同じ名前で投稿したのでわかると思いますが、別の記事から、いくつか読み進めています。なんかいくつもコメントしたりしてしまって、粘着してるみたいで気持ち悪いですよね。ごめんなさい(笑))
花が「美しいとは思うけれども、生々しさが勝つ」のでしょうか?
それとも「美しい」という思いすらもわかないほどですか?
当初、花という美しい存在が儚くが失われてゆくことへの憂いなのかなと思ったのですが、生殖器に関する話が出てきたので、また別のことに思い至りました。
というのは、私は、自分や誰かが何かものを食べているときに、「食べる」という行為自体に今更ぎょっとすることがあるのです。
普段は何も思わないのですが、ふとした時に、「人も私も、よくこんなことを人前でやっているものだ」と思うことがあります。
その感覚とひょっとしたら通じるものあるのかな?という気がしました。