スポーツが生み出してしまうヘイト感情について整理してみようと思う。整理しても何の意味もないが、気になったのでメモしておく。
ここで言う「ヘイト」とは「相手へのリスペクトを欠いた精神状態」とする。簡単に言えば「むかつく」あたりだろうか。相手の失態に対して内心であっても「ざまあみろ」くらいが吐ける精神状態とでもしておく。
対戦選手間のヘイト感情
本来、競技者同士は憎み合う必要はどこにもなく、ルール上許された範囲でひたすら勝利を模索するのが一番合理的なのだが、人間なのでそういうわけにはいかない。
不要なはずの選手間でのヘイト感情がどのような競技で発生するのかを競技の種類で分類しながら考える。分類名は私が勝手に考えたものなので、用語があればご教示いただきたい。
非作用競技
自分の行為が競技のルール上では相手に作用しないスポーツ。相手選手の精神面には何らかの作用が働く場合がある。基本的に「記録」を狙うスポーツになる。
- ゴルフ
- 陸上
- 体操
- ボウリング など
これらのスポーツは相手を直接不利に追いやることができず、自分が頑張るしかないスポーツだ。とは言え戦術的な駆け引きが皆無というわけではなく、何らかの作戦や行動が相手の動揺を誘うことは競技によっては起こる。
例えばマラソンでは「スパートをいつかけるか」などの戦術を考える必要があり、相手の行動によっては自分の行動を変更する契機になる場合がある。※1 また、抜き去る場合もスピードを上げて相手選手へ精神的なダメージを与えるといったことは行われている。
※1.これを「作用」なのか「非作用の範疇」と見るかは微妙で、この件については後述する。
一方でアーチェリーやボブスレーのような競技では、対戦相手との駆け引きは殆ど無いか皆無になる。黙々と記録を達成することが要求される。
いずれにしても基本的にヘイト感情にまで昇華することは稀だろう。負けたとしても「全て自分が悪い」というルール設計なので、対戦相手へのヘイト感情は普通生まれないはずだ。
このようにこれらの競技では、単なる個人的な好き嫌いでヘイト感情が発生することはあるかもしれないが、競技中の行為によってヘイト感情が発生することは無いか、非常に限られている。
加えて、これら「記録」系の競技の特性上、精神面で研ぎ澄まされた状態でないとパフォーマンスを発揮しにくいため、ヘイト感情は殆どの場合邪魔だろう。人によってはプラスになる可能性はある。
作用-非接触競技
自分の行為が相手に直接作用するスポーツうち、ボディコンタクトがないスポーツ。
- テニス
- バレーボール
- カーリング など
これらのスポーツは自分の行為で直接相手を不利に追いやることが可能だ。テニスならば相手のいない場所に打ち返すことで得点になる。
相手の裏をかいたり、嫌がることをするのが重要な戦術となるため、上の「非作用競技」よりはヘイト感情は生まれやすい。相手が憎たらしく見える場面は多くなるだろう。
とは言え、こちらのスポーツも「自分が悪い」か「相手が上手い」しか無いのでヘイト感情が湧いたとしても、普通の大人であれば表面に出すのは避ける。表面に出した場合は自分の醜さのみが露呈することになってしまうからだ。
子供の場合は、相手へのヘイト感情と自己防衛を両立するために、「アイツがズルい」などという少々飛躍した論理構成で、効率的に解消しようとする場合がある。大人であれば基本的には「言い争い」すらも発生しない。
スポーツかどうかはさておき、囲碁や将棋などもこの分類に入る。
作用-接触競技
自分の行為が相手に直接作用するスポーツうち、ボディコンタクトがあるスポーツ。相手選手に対して故意に危害を加えることが容易な競技だ。
- サッカー
- アメフト
- 野球(死球をどう見るかで一つ上の分類に移動する)
- バスケットボール など
これらの競技は選手間のヘイトが非常に高まりやすい。動物は自分の身体が攻撃されれば自然と怒りに変わるようにできているのだから仕方がない。従って勝敗や合理性とは関係なくヘイト感情が発生する。
それらがある種の因縁となれば勝敗を賭けて対戦する構図にもなりやすい。
また、ルール上で許されていないボディコンタクトが発生すれば「ルール違反だ」ということになり、余計に感情的になりやすい。「乱闘や言い争いが発生する競技」と言い換えてもいいだろう。
ヘイトやこの分類と関係があるかどうかは分からないが、興行的に大成功しているスポーツが多いのもこの分類の傾向なのではないか。不特定の大多数を熱狂させるには、ある種の暴力やそれに準じる精神状態が適度に必要なのだろうか。
格闘競技
最後。ルールに定められた暴力で相手を封じれば勝ちとなるスポーツ。格闘技。分類としては上記の「作用-接触競技」になるが、ヘイト感情を考える上では別枠なのが妥当ではないかと考えた。
- ボクシング
- 柔道
- フェンシング
- 相撲 など
相手を倒すことが最終目標であり、そのために暴力がルールに内包されている。ルールに則りながら力で相手をねじ伏せることが可能な競技であるため、ヘイト感情を考える上で上記3つとは少々毛色が違うのではと考えた。
ところが私自身に格闘技の経験がまったくない上に、視聴する習慣もないため、なにも想像ができないという体たらくに終わった。
あえて別枠にする必要性はなかったかもしれない。
上記の分類では所属が曖昧な競技
本稿の趣旨「ヘイト」とは離れるが、分類自体について気になったこと。私が勝手に考えた分類なので「気になる」というのも変な話だが書いておく。
マラソンがこの分類では少し微妙な立ち位置なのがわかる。例えばF1や競艇、スケートのショートトラックなどの競技を考えるとより境界が曖昧なスポーツがあるのがわかる。
「非作用競技」は、前述の通り「記録」を狙うスポーツになるが、もう一つ別の言い換えが出来る。「同時に競う必要がないスポーツ」となる。
例えばゴルフは時間やコースの都合でグールプに分かれて3,4人で回っているが、別に一人で個別にやっても何ら問題ないし、スキーのジャンプは同時に何人も飛ばない。一人ひとりが記録を計測したあとで一番を決めればいいのだ。
マラソンは一人で2時間も費やすが、時間が許せばスキーのジャンプ競技のように一人ずつ走っても良い。当然気候や環境も変わってしまうし時間が許すわけもないので、同時にスタートしているわけだが、条件が整えば別々に競技してもいいのだ。
さて、F1や競艇となるとかなり趣が異なってくる。対戦相手あっての競争競技という側面が強い。単にタイムを競っているのではなく順位を競っているので、相手との駆け引きが競技の重要なポイントになっている。
これらのスポーツは相手への作用が非常に強い。さらには、戦術的なものではないとはいえ接触機会も多々ある。もはや事故だが、レースの順位に重大な影響を与える要素でもあり、実態は「作用-接触競技」に近い。
何をどう仕分けるかで三種類の分類のどれにも属する可能性がある。別枠と捉えてもいいし、下位の細分類としてもいいかもしれない。
端的に言えば、「同時に開始する競争競技のうち、コース取りが自由な競技は相手選手への物理的な作用が発生し、場合によっては接触するため、分類が難しい」となる。
それではヘイト感情について戻る。
選手間以外のヘイト
選手間以外のその他のヘイト関係を見ていく。
対審判
競技によって大小や頻度は異なるが、審判に対してヘイトが集まることはよくある。
この場合どの競技の種類でも起こる可能性がある。例えばテニスではチャレンジ制度がなければ、たびたび選手と審判で揉めることになる。
人間の目には早すぎて、発生した事象がわかりにくい場合でも、審判は判定を下さなければならない。この場合、選手やそのファンは「一方的に不利な判定が下された」と捉えて、ヘイト感情が発生する。
一方で、誰が見ても明らかな判定のみが下される競技や、人間ではなく映像やセンサーによる判定が導入されている競技(アメフト、陸上競技の一部、フェンシングなど)では、審判へのヘイトは少ないか、全くない。
このあたりについては過去に少々記事にしているので興味があれば参照ください。http://inseki.info/2015/06/21/post-91/
ファン間
ファン同士でヘイト感情を募らせるケース。ファンが選手やチームに感情移入するあまり、対戦相手のファンへのリスペクトを欠いた状態。同一選手や同一のチームのファン同士であっても発生する。
興行として成功しているスポーツでは大人数を巻き込むことになり、海外のサッカーでは集団的な暴行事件に発展することもある。日本のプロ野球であれば、どこかとどこかのチームのファンがTwitter上でバトルしているなんていうのは見慣れた光景である。
元々この記事を書く動機となったのは、この「『ファン同士のヘイト感情』がどうして発生してしまうのか」ということであった。選手間のヘイト感情であれば勝利への動機になる可能性があるが、ファン同士でのヘイト感情は冷静に考えれば非生産的で、なんの利もないはずである。しかし絶えず発生してしまう。
どうしても憎しみ合う人々
人は何故か人を憎んでしまう。自分が戦っているわけでもない、相手選手ですらない。ほとんど合理的な理由はないがファン同士で発生してしまう。
一方で興行の主催者側からすると行き過ぎなければ(法や人権に問題の無い範囲であれば)ありがたい反応ではあるだろう。盛り上がりの重要な要素と言ってもいい。
このファン間のヘイト感情を「愚かだ」と一蹴してもいいが、何故あるかを考えてもバチは当たらない。随分とマクロな視点にズームアウトするが頭がおかしくなったと思わないで欲しい。「愚かさ」を認めることで何か得るものはあるはずだ。
ヘイト感情の原点
人間が持つヘイト感情の原点は、動物が持つ個々の生存競争や防衛本能として用意された「怒り」だ。近寄ると怒る動物は珍しくない。自分の生存が脅かされると思えば怒りとなる。素人の知ったかぶりで申し訳ないが、生物学的には怒ることで一時的に身体能力を向上(≒上限解放)させる役割があり、「怒り」は防衛本能の都合から見ても合理性がある。
また、人類が集団生活を営むにあたって、手っ取り早く団結する最も都合のいいツールとして「怒り」は発達する。利害の一致する集団としない集団があれば「あれは同じ人間ではない」と捉えて人類は殺しあってきた。何十万年とその繰り返しで生存競争を勝ち抜き、進化してきた。
大げさだがこれが「ファン間」のヘイト感情のルーツになるだろう。
敵があれば仲間が発生し、仲間を作るために敵を創造することもある。これらがすぐに強固な結束を生むのは見飽きた光景だ。
ところが「愚かだ」と簡単に嘆くわけにもいかない。団結力はまさにその集団の生死を分けてきた歴史がある。有史以前から我々は、自らの命すらも投げ打って集団に貢献することで生き延びてきた。そして何十万年もの間、際限なく繰り返されてきたこの戦いの勝者が現在の我々だ。この機構は遺伝子に深く刻み込まれた仕方のないことだと考えることが出来るだろう。
避けられないと理解する態度
「冷静になれ」と言うのは「合理的か?」と自問自答することだが、誰もがいつでも出来ることではない。人間ごときの大脳新皮質で「冷静になって考える」ということが、どこまで賢い選択なのかは分からないが、全てのヘイト感情は人間には「避けようがない」と、まずは理解しておくだけでも重要だ。
人類から差別やいじめや戦争がなくなるわけもないということを改めて確認することにもなる。一つ抽象度が上がった視点から俯瞰できれば、非生産的な出来事から距離を置いて加担せずに済むチャンスが増えるはずだ。
たとえ目撃しても、自ら論戦や乱闘に繰り出すこともせずに済む。愚か者だと斜に構えて嘲笑することもしない。恐ろしいことだと嫌悪感を抱いて眼を背けることとも違う。そこに避けられない出来事として厳然として存在すると認めるのだ。この態度は非常に大切である。特に「ネットによる怒りの伝播」が文字通り光速となってしまった現代においては重要だろう。
かなり脱線したが、ヘイト感情の分類に戻る。
ファン選手間
これには2つある。
一つ目は、ファンが対戦相手の選手に対してヘイト感情を抱く場合。ヒール役の強者にはヘイトが集まる格好となる。
二つ目はチーム競技だと起こりやすい。「あいつのせいで俺の好きなチームが負けたので許せない」という感情だ。応援するチームに所属する選手に対してヘイトを募らせるケースとなる。ミスなどで敗戦の原因とされる選手に対するものが一般的だ。選手ではなくコーチやチーム運営組織などに向けられることも多い。
この二つ目は人間のなせる業とも言うべき、動物としては非常に高度なヘイト感情だろう。
おわりに
こんな分類をする意味は多分、ない。