サッカーのルールというべきかレギュレーションで気になる点があるのでメモ。目次としては下記になる。
本記事では「審判の時計」について述べる。
問題点と結論
「現在、時計が進んでいるの止まっているのか」は、サッカー観戦における私が感じる疑問の一つだ。
この時計がいつも曖昧なために、プレー以外での無用な行為がよく起こる。遅延行為だ。見ていて気持ちのいい行為ではないが、実は簡単に解消できる。審判の時計を常に掲示するだけでいい。たったこれだけで、かなりの非スポーツマンシップ的行為が防げる。しかし全く行われない。なぜ行われないのかは結構不思議な部類である。
代表的な遅延行為
遅延行為でお馴染みなのは、試合終了間際になると「ゴールキックが中々行われない」というものだ。勝っている側は時間が稼げるということになるが、あまりに稼ぐと警告となる。
このイエローカードが出る閾値も状況で変化するのもあまりよろしくない。試合序盤のほうが長々と時間を割いてゴールキックしてたりする場合もあるが、その場合カードが出ることはない。閾値のことは「審判への抗議」でメインの話題となる。
これらの遅延行為はスローインやフリーキックでも起こる。時間が稼げているかもしれないからだ。そして実際稼げている。
もっと見苦しいのは仮病的に倒れこんだりするケースだ。殆どの場合は試合終盤で発生するので、本当に疲れて倒れてしまう場合もあるだろうし、実際に怪我をしている場合もある。だとしても、こちらは素直に心配してあげられないことは多い。それほどどの国際大会でも終了間際になると突然ゴロンと倒れ込んだりするのを見るからだ。
ベンチワークでも時間稼ぎの手段として、残り時間がないところでわざわざ選手交代を行い、「のろのろピッチを去る」などと様々に行われる。とにかく時間を稼ぎたいのだ。
現状では遅延行為の発生はやむを得ない
審判もそれなりに対応しているはずだろうから実際の効果は別として、「とりあえずなんでもいいから時間を消費しておきたい」という心理が働くのは止むを得ないだろう。スポーツマンシップや倫理道徳を持ち出して「やめなさい」と言ったって仕方がない。ルール上、レギュレーション上で認められた行為であれば、どんな手段でも使うはずだ。ましてや1勝で世界や人生が変わってしまうほどの大舞台なら尚更だ。
上記のような行為や心理状況を、「サッカーの文化や試合の一部として楽しむことが出来るか」と問われると、私はあまり楽しめない。「昔はこんな遅延行為があったんだよね」と笑って振り返ることは可能かもしれないが、少なくとも次や未来に観戦する試合で上記のようなシーンは望んでいない。
遅延行為を自然に抑制するには
冒頭で述べたように、これらの遅延行為を自然に抑制するためには、「審判の時計」を常に掲示・公開し、アウトオブプレーになった瞬間に逐次止めればいい。インプレーの瞬間に時計を再開すればよい。この改定によって時計は審判(主審)のものではなくなる。主審は時計の操作から開放され、第nの審判が常に時計を管理すれば良い。もちろん負担でないなら主審が引き続きやっても良い。
とにかく、現在時計が動いているのか、止まっているのかが全員わかればいい。時計の進行を主審のみに秘匿しておく理由はどこにもない。時計が公開され、選手やコーチや観客が見ているだけで、無用な疑心暗鬼や足の引っ張り合いに近い盤外戦術は全て姿を消す。
時計が掲示され、常にインプレーのみ時計が進むのならば、誰がピッチに倒れこんでもブーイングは起きない。敵味方問わず、倒れた選手に重大な怪我などがないかを素直に心配すればよろしい。必ず時計は止まっているし、実際に止まっていることが見えるのだから、必要な処置や治療をすれば良いだけになる。トレーナーを呼び、担架を呼び、しかし何事もない場合もあるだろう。そんなことは全く構わない。時間稼ぎにならない事が皆わかっているのだ。その時必要な最善の処置を選手に行うべきだ。
ゴールキーパーがなかなか蹴らなくても時間のことを気にする必要もない。蹴った瞬間に時計が動き始めるのを誰もが確認できるのだから。自由に時間をかけて蹴ればいいのである。
残り時間0分で選手交代する必要もない。ゆっくりピッチを去っても掲示板の時計は進まないのだ。ただそれだけのことだ。
これで、恐らくほとんど全ての遅延行為はなくなる。時計が掲示されていれば、その遅延行為に意味が無いのが明確にわかるのだから誰もしない。この明快さが肝心だ。ものすごく単純でありながら、効果が絶大だ。草サッカーなどで設備や人員がないなら、当然今までどおりでいいが、商業的に成功しているリーグや大会などでは今すぐにでも導入すべきだろう。
アウトオブプレーで時計を止め(ゴールキーパーのキャッチでも止める)、インプレーで再開する。そしてその時計を電光掲示板などで見せればいい。たったこれだけでほぼすべての遅延行為がなくなる。
一つ懸念があるとすれば、相手をイライラさせるためだけに「プレーを開始しない」という行為が起こる可能性だ。いくら時計が止まっているからといっても10分もフリーキックを蹴らないとなれば、何らかのペナルティーを課すべきだろう。
かなり最低な行為なので実際起きるかはわからないが、念の為に別途制限時間を設けておくべきだろう。例えば「審判の開始許可の合図から30秒以内にプレーを開始しなければならない」というようなルールを定めればよろしい。当然この制限時間も明確に掲示するべきである。
NFLのDelay Of Gameや、NBAのShot clockなど、試合時間とは別に幾つかの時間を計時するのは珍しくない。「珍しくない」という表現を使ったが、これはだいぶサッカー界に寄り添った表現だ。「当然掲示されるべきもの」であって、掲示されなければゲーム自体がそもそも成り立たないレベルのものだ。いずれもテレビ中継画面にも常に表示されている。
MLBは試合自体に時間制限はないが、今年(2015)からイニング間の時間を計時するようになっており、規定時間をオーバーしてはならないと定められた。当然いずれも違反すると罰則が設けられている。
アディショナルタイムはなくなる
これらの改定によってアディショナルタイムはなくなる。インプレーの場合だけ時計が進むのだから、時間をロスしようがない。アディショナルタイムが妙に「長い or 短い ような気がする」と言った、いわゆる「フザロス」なども当然なくなる。主審の独断でアディショナルタイムは決められなくなるのだ。逆から言えば、選手や観客からの主審への誤解も無くなる。このあたりも相当フェアになる。従って、前もって試合終了のタイミングが誰の目にも明らかとなり、サッカーでもブザービーター的な行動が見られることになるだろう。
この改訂と合わせて試合時間を40分✕2にしてもいい。インプレーのみでタイトに時計が進むとなると、前後半45分のままではこれまでより拘束時間が増えて、選手の負担が増すからだ。
終わりに
大部分の人間が不快、もしくは不要だと思うような遅延行為に対して、非難の声を挙げる人は多いが、それに比べてルール設計面から考える人は少ないのではないか。非常に単純で明快な変更で綺麗さっぱり無くなるので是非一考してもらいたい。誰も損をしないし、ビデオ判定のような人間への信頼を傷つけるわけでもない。改善してほしい。
以下は他のスポーツとの比較や余談と少々の反省になる。
慣れ親しんだ「人間味」
この改定によって時間の面で見違えるほどフェアになるが、アメスポ特有の強烈な平等主義や合理主義に私が毒されているから改定すべきと感じるのかもしれない。この文章内でも引き合いに出しているのが、NFLやNBA、MLBという有様なので、視点が偏っている可能性が高い。古くからのサッカーファン、関係者や当事者からみれば、「なんとけしからん意見だ」となるのかもしれない。
このレギュレーション改定に反論があるとすれば「サッカーらしさが消える」「人間味が失われる」「伝統が損なわれる」「今までこれでやってきた」「それくらいいいじゃないか」等々の、言葉にするのが少々難しい「人間臭さ」が消えてしまう戸惑いみたいなものがあるかもしれない。
さらには「それはもはやサッカーではない」といった意見もあるだろう。この気持ちもわかる。確かに別のスポーツになるような気もする。このあたりの心の機微は自分でも掴みにくい。
本稿で述べたようなレギュレーション改定は、他の競技でもビデオ機器やセンサー、コンピューター技術の向上によって時代とともに常にせめぎあいが起きてきた。導入前には物議を醸すのだが、殆どの場合は導入すると一転して新たな常識となり、「なぜ今までそうしてこなかったのか」と思うほどに定着するのは興味深い。NFLで洗練化されたチャレンジ制度(≒ビデオ判定)が、2005年にテニス界でその有効性が認められると、瞬く間に他のスポーツへ浸透していったのは面白い。
今後も様々なスポーツで起こるだろう。パッと思いつく例としては、野球のストライク/ボールの判定を「センサーでやったほうがいいのではないか」などだ。これに関しては野球の持つ魅力の一部が削ぎ落ちてしまうのではないかという、本能的な感覚が確かにある。慣れ親しんだ職業や人がコンピューター等に置き換わるというのは、人間のもつ生存本能に訴えかけるものがあるかもしれない。
本稿の「審判の時計」では、何かに置き換わるわけではないので心理的抵抗も比較的少ないように思う。
ちなみに筆者は野球のストライク判定はセンサーでやるべきだと思っている。1cm、1mmの差を常に厳格に裁ける訳もない。球審はそのセンサーの判定をコールすればよろしい。左右のコースももちろん難しいが、特にストライクゾーンの「高さ」の判定など人間にできる芸当ではない。もっと言えば両コーナーの高めのジャッジなどは常に曖昧だ。キャッチャーの構えと反対に来た場合(いわゆる逆球)なども、人間の目と心が追いつけるわけもない。どう見てもストライクに見える投球に対し、球審が居合抜きにでも遭遇したかのように固まっている(すなわちボールの判定となる)のを目撃することは多い。MLBより先んじてNPBで導入してみたらどうか。無理か。
もし導入されれば、これまでの審判が持つ素晴らしいほどの判断能力の高さに驚くと同時に、曖昧で平然と間違いを犯す「人間らしさ」の両面が浮き彫りになるだろう。競技面で言えば、投球術と呼ばれる投手の技術や駆け引きがより際立つことになる。打者も混じりっ気のない投手(捕手)との勝負になる。観客も「なぜあれがストライクなんだ」という憤りや疑問がなくなる。すなわち純粋な競技性が増し、ひいては競技水準が上がることに繋がるだろう。具体的にはクロスファイアーや変化球の高低がとてつもなく注目されることになる。立体的なストライクゾーンのどこかをかすめるボールの価値が増すということだ。また逆にキャッチャーの要求通りのコースに投げられないパワー型の投手の価値も増すかもしれない。
しかしこちらも「それはもはや野球じゃない」という意見が出るのは想像がつく。私ですらどこかでそう思っている。裏を返せば「理不尽なストライクコールで三振となり、時に負けてもいい」とほぼ同義なのだが、人間とは不思議なものでそういう生き物なのだ。たとえ理不尽でも、「慣れ親しんだ理不尽さ」には愛着すら感じてしまうのが人なのだ。そして、良くも悪くも次の世代にも引き継ごうとしてしまうのだ。
余談がだいぶ長くなってしまった。
技術の進歩とスポーツの伝統がせめぎあって、一番劇的に変わった、というか潔かったのはフェンシングではないだろうか。何しろ西洋の伝統的な決闘が、いきなり電気信号によって判定される事になったというのは革命的だったはずだ。
当初凄まじい抵抗があったであろうことは容易に想像できる。ただ、本当ならば一瞬の突き合いで文字通り生死を分けるはずの競技としては、誤審も絶対に許しがたいものだったのだろう。1936年というかなり早い段階で判定から人間の判断を排除した。どんなに慣れ親しんだ制度や設計であろうと、誤審やそれによる理不尽な結果はやはり受け入れがたいのだ。
日本で言えば相撲から行司が消えるようなものである。とんでもない大転換だ。ただ、その大相撲も1969年に既にビデオ判定を導入しているというのは、近年の傾向を見るに非常に示唆的である。合理商業主義の頂点であるであろうNFLがビデオ判定に取り組む1986年の遥か17年も前と言うのは少々驚くべき事実である。