「新・電子立国」は、20年前(1995年)に放映された「ソフトウェアとは一体何か」をテーマとした番組である。丸々1時間番組の9回シリーズというボリュームで、当時の日本や世界のソフトウェア産業を軸に様々な角度からテーマに迫っている。
一方、「電子立国・電子立国日本の自叙伝」は更に遡ること4年、6回シリーズでバブル崩壊前夜の1991年に放映されたものである。こちらは、戦中戦後の黎明期・高度経済成長を経て、当時隆盛を誇っていた日本の半導体技術がいかにして成長し発展したかを、ある意味誇らしげに振り返ったものとなっている。大きく分けて「ハードウェア」について取り扱った番組となっている。
どちらも当時の中心人物に直接取材している点で非常に興味深く、既に存命していない人も数多く登場する。特にハードウェアをテーマにした「電子立国・電子立国日本の自叙伝」は再現映像も手伝ってか、一大産業が発展する前の手探り感のようなものがわかりやすく追体験できるようになっている。
ソフトウェアがテーマの「新・電子立国」ではマイクロソフトやアップル、任天堂などの今日では身近な大企業の生い立ちや奮闘が、現存する人物によって生々しく語られているところが面白い。現代の並み居る巨人に対して取材に成功しているが、スティーブ・ジョブズのインタビューには失敗している。当時アップルは辛酸を嘗めていたせいか、と言うよりは彼がNeXTという暗黒期であったためか、取材に応じてもらえなかったのが今となっても悔やまれる。
シリーズの長さのおかげで、組み込み系から基幹システム、専用アプリケーションからパソコンソフトまで紹介しいる点も社会科見学のようで楽しめる。これらはソフトウェアがどのようなものかを野次馬的に理解するのにたいへん役立つものになっている。
製鉄所の基幹システムと自動車エンジンの制御ソフトのくだりは、日本的なソフトウェア開発技法ともいうべきものが垣間見えた気がした。組織的なのである。他方でアメリカは当時からソフトウェアでは既に一強時代である。一握りの天才が生み出す製品やサービスが取材の多くの対象となっているせいもあるが、個人主義的な空気を否が応にも感じ取ることが出来る。
両番組内で出てくる当時の大企業も、現在では既に経営戦略の失態や時代の流れによって現存していなかったり、もしくは規模の大幅な縮小を迫られていてこの点も大変興味深い。この番組を未来から振りかえって見ていると盛者必衰を強く思い知らされる。
一企業どころではなく、そもそも今日では日本という国自体が長い低迷期に突入したままだ。中でも日本の半導体産業は全く奮わず、殆どの日本企業が半導体産業から撤退・縮小しているという現実が横たわっている。ところが当時は飛ぶ鳥を落とす勢いそのままに、番組内で誇らしげ、あるいは怖いもの知らずで語られる彼の国は、まるで別の国のように見える。これらのギャップのせいで放映時とは違った教育的な意味を放ち始めている。諸行無常の響きありだ。
「新・電子立国」の番組最後でディレクターがしみじみと語る「人の問題ですね。ソフトウェアって結局ヒトなんだ。」は、予言そのものである。当時の日本の有り様に触れて、「日本のソフトウェア産業に未来は無いのではないか」という示唆は、この20年間的中してしまう。現在のグーグル、フェイスブック、アマゾン等々のアメリカのソフトウェア産業の独走は、業界は違えど過去に一度は覇権を握りかけた日本にとって「失われた20年」という経済の低迷以上に構造的で、国民性すら問われかねないものとして重くのしかかっている。